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これもINAXライブミュージアムの所蔵品だけど、昨日取り上げたようなタイルとは別物で、ホテルオークラ(1962年竣工、2015年解体)の外装タイル。もともとINAX(伊奈製陶)が製作したのだろうか。こういうものも人知れず(?)きちんと収蔵されているのだなと思った。どこの部分か分からなかったけど、解体前に訪れたとき(2015年8月27日)の写真を見返してみると、正面の車寄せで使われていたものらしい。以下、その写真2点。

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昨日はそのまま常滑に移動して宿泊し、今日、1年ぶり(2018年12月20日)にINAXライブミュージアムを訪れた。今回は時間に余裕があって、すこし街を歩いたり、古今東西の充実したタイルの展示もじっくりと観ることができた(残念ながら堀口捨己設計の陶芸研究所は月曜休館)。
古い伝統的なタイルの多くには、その絵や図に、ある種の雑さがある。手仕事による大量生産がもたらす雑さ(作品意識の薄さ)は、柳宗悦があるべき民藝の条件のひとつに挙げているけれど、特にタイルはひとつひとつ人が手に取って観ることもないし、鑑賞の対象というよりは(そういうものもあるだろうけど)、人から一定の距離をおいて環境として存在することが多いだろうから、それが視覚的な装飾の要素であったとしても、制作上の雑さを許容しやすいかもしれない。むしろこういったタイルは、1枚1枚が厳密に同一であるよりも、それぞれで多少の揺らぎがあったほうが、建築の面を覆う総体として現れたときには豊かであるような気もする。

 沢山作るということは、労働のはげしさや繰返しを意味します。ちょっと考えますと、かかる事情は藝術から遠のく理由になるように思われがちですが、しかし何千万個と同じ品を早く沢山作らねばならぬということは、技術を非常に熟達させ、作る意識を超えさせ、無心で作れるに至ることを意味します。作る者と、作られる物とが分れているのでなく、全く私なき仕事、美醜もなき仕事、つまり仕事が仕事する境地にまで達します。

  • 柳宗悦「無有好醜の願」、『新編 美の法門』水尾比呂志編、岩波文庫、1995年、p.141

もうすこし適した引用がありそうな気がするけれど、しばらく柳宗悦の文から離れていたので感覚が鈍っている。以下、写真4点。

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豊田市美術館「岡﨑乾二郎 視覚のカイソウ」展を観た(〜2/24)。新作も含む大規模な回顧展。午前中から閉館時間までいたけれど、作品数が多く、小さなギャラリーでの新作展のように一つ一つをじっくりとは観ていられない。かつて観たことがある作品も多かったので、個々の作品を鑑賞しつつも、それらの全体のあり方を思い浮かべ、美術館の展示空間にいながら作品同士を体験的に響き合わせるような観方になったと思う。
「視覚のカイソウ」というタイトルは、「カイソウ」を片仮名にすることで様々な漢字の代入を可能にし(回想、階層、回送…)、言葉の意味を宙吊りにする一方、その「カイソウ」の可変性によって「視覚」のほうは自ずと存在が固定化される。しかし、はたして岡﨑さんの作品は視覚という概念を軸に捉えきれるものだろうか。たとえばZero Thumbnailシリーズの作品()が「おいしそう」(味覚的・嗅覚的)というのは多くの人が語るところだし、岡﨑さんの作品に見られる「諸要素の構成によって想像的に生成される関係としての空間」といったような性質は、視覚に根ざしているというより、むしろ視覚優位の認識の形式を批判するものであるように思われる。以下、ふと思い出してしばらくぶりにめくってみた本より。

 およそ私たちの感覚印象は、総合的な知覚、単純にみえるその働きのなかにも総合性をおのずと含んでいる知覚以前に、それを離れてありえない。また、知覚それ自身も、すでに習慣として身についたそれまでの経験や判断に左右されるところが少なくない。その上知覚は、もともと個々の物事よりも全体的な世界、つまりそれらの物事を含みつつ私たちをとりまく世界を対象にしている。たとえ個々の物事を志向する場合でも、そのような〈世界〉の知覚をおのずから、地平として含んでいる。したがって感覚は、知覚をとおして私たちの過去の経験とも世界の全体性とも結びついている。つまり感覚印象は私たちにとって決して直接的なものでもないし、それだけで独立してあるのでもない。

  • 中村雄二郎『共通感覚論』岩波現代文庫、2000年(初版1979年)、p.91
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昨日書いたことの具体例。最近、ブライアン・デ・パルマ『カリートの道』(1993)と、クエンティン・タランティーノ『ジャンゴ 繋がれざる者』(2012)を家で観たのだけど、どちらの作品も暴力が描かれていて、人が殺される。しかしそのことに対して、以前観た『クリーピー 偽りの隣人』(2019年6月16日)に抱いたような直接的な嫌悪感はなかった。むしろどちらの作品も面白かったと言える。けれども昨日書いたような意味で極論すると、やはりこの2作もまた、社会において暴力というものを(認識のレベルで)一般化させる働きを持つのだろうと思う。
下の映像でアキ・カウリスマキが小津安二郎について語ることに共感する。「アメリカ映画の影響を受けて育った私が 小津監督を尊敬するのは 人生の根源を描くとき一度として 殺人や暴力や銃を使わなかったことです」。

ある種の作品が「子どもたちに悪影響がある」といって非難/規制されることは昔からよくあって、それに対して例えば「殺人を描いた漫画を読んだからといってその人が殺人を犯すわけではない」といったふうに、「表現の自由」や「作品の自律性」を擁護する反批判も常にされてきたと思う。
この両極に対し、僕はどちらかと言うと後者のほうが進歩的だと思って共感してきたけれど、最近は自分自身が歳を取ったせいか、前者の気持ちも分かるようになってきた*1。非難や規制をするかどうかはともかく、あるいはその影響が悪影響かどうかはともかく、作品がそれに接する人に影響を与えないはずはないだろう、と。その影響を否定するのは、作品の存在を擁護するようでいてむしろ逆に作品の力を見くびっているようにも思えてしまう。作品からの影響は「殺人を描いた漫画を読んだから殺人を犯す」というほど直接的ではないにしても、「朱に交われば赤くなる」と言われるような意味で、無自覚のうちにその人の認識の基準を左右するということは十分ありえる。だからこそ昔から、創作の道をこころざす人に対しては、「若いうちに良い作品をたくさん観ておきなさい」ということが言われるのだろう。

*1:20年近くまえに書いたこの文を読むと、若い頃から前者的なことを考えがちだったような気もする。 https://richeamateur.hatenablog.jp/entry/20110316

Netflixで『全裸監督』全8回を観た。取るに足らないものだと思いつつも、ところどころ飛ばしながらついすべて見通してしまった。この作品はそこまでひどくはないけれど、ドラマや映画にしても、漫画やアニメにしても、しっかりとした内実がないまま、ある種の感覚を刺激する中毒性で観客を引きつけようとするものが近年特に多くなっている気がする(僕はやらないけど、たぶんゲームの領域もその傾向は顕著だろう)。そしてそういう作品は、それぞれの存在が内発的でないぶん、作品同士で似通ってくる。
その意味では、『全裸監督』はたまたま集まった素人同然の人たちが自らの感性と才覚でオリジナルな作品/商品をつくり、在庫を抱えながら手探りで販路を得て、全国の潜在的な観客にそれを届け、それに対する個人的・社会的な反響が金銭の対価とともに現れるという「世界の小ささ」とでも言えるようなことにおいて、今の僕にも響いてくるところがあった。それはインディペンデントに雑誌を発行する僕自身の個人的な憧憬でもあるだろうけど、意外と現代社会における80年代への回顧的なまなざしとも重なるのかもしれない。

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東京国立近代美術館「窓展:窓をめぐるアートと建築の旅」を観た(〜2/2)。たとえば「写真における建築」というテーマの企画を立てたとき、世の中には建築が写った写真が無数にある(ありふれている)という事実がメリットにもデメリットにもなる(2018年11月16日)のと同様に、「芸術における窓」というテーマの企画でも、世の中に窓を含む作品は無数にあるということがメリットにもデメリットにもなるのだと思う。とくに実物を扱う展覧会というメディアで難しいのは、「この作品は窓の存在がそれほど深く本質に関わってはいないけれども、悪くない作品だし、借りやすい(あるいは所蔵しているので借りる必要がない)から出展しておこう」といったような現実的な選択肢が多々あることではないかと思われる。そういう選択が積み重なると、個々の作品の良し悪しとは別に、展覧会全体のテーマはぼやけてしまう。その一方、実物の作品をよそに、比較的自由に図版を集めやすい年表のような展示物にむしろ「芸術における窓」の濃密なイメージを感じてしまったりもして、それはそれで抽象化されたテーマ主義に自分が囚われているような気もする。
ミュージアムショップでは関連図書として『窓の観察』()も並べてくれていた。
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昨日は日本建築学会の建築論・建築意匠小委員会が主催するシンポジウムに登壇するために《みんなの森 ぎふメディアコスモス》を訪れたのだった。「建築論の問題群」という連続研究会の「聖」というテーマの回だったのだけど、その研究テーマ自体が部外者へのアンケート結果に基づいて決められたものだといい、なぜいまことさら建築論として「聖」を議論する必要があるのか、おそらく登壇者の誰一人として確かな実感を持っていないという不思議な集まりだった(とりわけ「聖」という概念を考える上では、その内的必然性のなさは決定的な欠陥になってしまうと思う)。それでも議論を活性化させようとあえてポレミックに組み立てた僕の発表も空回りだったけれど、せっかくこつこつと時間をかけ準備したものなので、発表時のスライドだけでも下に掲載しておくことにする。

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《みんなの森 ぎふメディアコスモス》(設計=伊東豊雄、2015年竣工)を訪問。竣工当時から観てみたいと思っていた建築だった。写真で見て想像していたよりも天井方向の存在感は強くなく、濃密な世界観を湛えているというよりも現代建築らしい開放性がある。カメラのファインダーを覗いているとつい広角で天井のカサを入れようとしてしまい、ズームレンズの標準〜望遠側で撮るのが難しい建築だった。以下、写真6点。

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国立近現代建築資料館「吉田鉄郎の近代──モダニズムと伝統の架け橋」展(11月2日)を再訪し、ギャラリートーク「吉田鉄郎の建築とその現代性」(塚本由晴×豊川斎赫×田所辰之助)を聴いた。豊川さんはご自身の研究対象である丹下健三をめぐって発表。吉田鐵郎と丹下健三の対比は、『建築と日常』No.5()の内田祥哉さんへのインタヴューでも話題になっていたことだった。

───評論家の川添登さん(1926-2015)が、丹下さんの香川県庁舎[*24]の柱梁の構成の原点には東京中央郵便局があると書かれているんです。つまり「吉田鉄郎以来の伝統に立ちながら、新しい方式を打ち出した」と[*25]。これはいかがですか。
内田 今言ったように、吉田さんはなんでも取ってしまわないとザッハリッヒの顔が立たない、しかし取ってしまった時のプロポーションが吉田さんの目に適うものになるかと言うと、そうは簡単にはいかないという辺りに悩みがあったと思う。でも丹下さんの場合は、その辺はわりとあっさりプロポーションに頼ってしまえる。ことに香川県庁舎の辺りはモデュロールを使っていますからね、コルビュジエのプロポーションを意識してやっている。しかしザッハリッヒという点からすると、香川県庁舎はザッハリッヒと言えるかどうか。つまりあの垂木ね。木造ならばあれだけの量も必要なのかもしれないけど、鉄筋コンクリートではどうなのか。そしてそれがもしザッハリッヒでないとすると、そもそもモダニズムと言えるのかどうか。僕は言えないという人も多いのではないかと思う。構造的には不要である垂木を用いることでプロポーションはなかなかいいですけど、吉田さんはそういうことはできないんですよね。そういう違いがあると思う。

  • 内田祥哉インタヴュー「吉田鐵郎の平凡、官庁営繕の公共性」『建築と日常』No.5、2018年、pp.14-16

どういう話の文脈だったか、あるいは文脈を外れてのことだったか、塚本先生が「吉田鉄郎は配筋までデザインしていたのか?」という疑問を口にしたのが印象に残った。たしかに吉田鐵郎ならば配筋まで厳密にデザインしていたとしても不思議な気はしない。吉田鐵郎は徹底した潔癖だったことが知られているけれど、やはり目に見えないものがどうしても気になってしまう人だったのだと思う。細菌にしても配筋にしても伝統にしても倫理にしても目に見えない。

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第二十九回文学フリマ東京が無事終了。8回目の参加で、売上げは以下のとおり。括弧内は前回以前の数字。

  • 『建築と日常の文章』……0部(4部/8部)
  • 『建築と日常』No.5……9部(10部完売/9部/19部)
  • 『建築と日常の写真』……2部(3部/1部/2部/16部)
  • 『建築と日常』No.3-4……5部完売(5部完売/0部/1部/7部/15部)
  • 『日本の建築批評がどう語られてきたか』……0部(1部/1部/0部/0部/0部/10部)
  • 『多木浩二と建築』……0部(1部/2部/1部/7部/4部/2部)
  • 『窓の観察』……8部(5部完売/2部/10部/6部/8部/13部/22部)
  • 『建築と日常』No.2……1部(5部完売/0部/1部/2部/5部/2部/9部)
  • 『建築と日常』No.1……在庫なし(在庫なし/在庫なし/在庫なし/在庫なし/在庫なし/6部/13部)
  • 『建築と日常』No.0……在庫なし(在庫なし/在庫なし/在庫なし/在庫なし/在庫なし/1部/2部)
  • 販売合計=25部(34部/23部/34部/38部/32部/34部/46部)
  • 売上げ=35,100円(47,050円/31,400円/47,300円/53,900円/49,700円/31,815円/48,990円)
  • 参加費=5,500円(5,500円/5,500円/5,500円/5,500円/5,500円/5,000円/5,000円)

前回どういうわけかわりと売れ行きがよかったのだけど、今回はいまいちだった。終わり間際になってふと、「こういう陳列方法にすれば売上げが伸びるのではないか」ということを思いついたので、次の機会に試してみたい。

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葉山御用邸の前、下山川の河口付近の海岸をつなぐ築50年あまりの橋。今年の正月(1月3日)に撮影した写真で、ここ数年ひどい状態が目についていたけれど、架け替えのために4月から寄付を募っているらしい。道路法が適用される道路や通勤・通学の日常生活に利用される生活道路ではないことから、町の公共施設管理計画の対象になっておらず、架け替え費用の捻出が難しい状況とのこと。

子供のころから馴染みのある橋がボロボロになって架け替えられるのはやはり寂しいけれど、それ以上に、景観としても動線としても重要と思えるこの橋を架け替える費用がないということに驚きと無常感を感じる。とりわけそうした感情が起きるのは、橋というものが土木構造物/インフラストラクチャーであり、人間の生活空間を支える強固な存在として、物理的にも観念的にもその永続性を無意識のうちに信じていたためかもしれない。意匠としてはむしろ、新しい橋は必ずしも現状のデザインを踏襲しなくてもよい気がする(同じにしたほうがお金を集めやすいのならそれでもいいと思うけど)。

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インターネットで、アンダース・エドストロームさんの写真集『Loops』(Antenne Publishing、2019年)を購入。表紙から裏表紙まで、中綴じで合計140ページ分の写真がすべて撮影順に並んでいるらしい(ただし、ある期間に撮影した写真がすべて使われているわけではなく、適宜セレクトはされていると思う)。

地域や季節をまたいだロードムービー的な構成は、「瞬間と瞬間のあいだを撮りたい」というアンダースさんの言葉()や、映画の撮影()をするモチベーションと関わりがあるだろうか。そんな気もするし、逆に組写真のレトリックに対する興味が薄いから撮ったままの順番で並べた、と言われても納得してしまいそうな気もする。