Anders Edström, Untitled, 2008

DIC川村記念美術館「抽象と形態:何処までも顕れないもの」展(〜4/15)を観た。出展作家によるギャラリートーク(アンダース・エドストローム×角田純×五木田智央)があるというので、それに合わせて出かけた。
そういえば『建築と日常』の次号は「抽象」という特集を予告していたのだった。展覧会のメインとなる7人の現代作家のうちアンダースさんだけが写真の出品だったこともあり、トークが会場に振られたとき、写真においての抽象とはなんなのか質問してみた。ただ、アンダースさんにも明確な答えが用意されているわけではなかったようだし、ところどころ通訳を介してもいたので、返答の内容について僕が自分の記憶で書くのはやめておく。しかしアンダースさんの認識は、質問に当たってこちらがなんとなく想定していたこととそれほど遠くはないようだった。
アンダースさんは以前から、瞬間と瞬間のあいだを撮りたいということを言っている。そしてそれは確かに写真からも実感される。そこから思うのは、「瞬間」を撮るよりも「瞬間と瞬間のあいだ」を撮るほうが、撮る側と撮られる側との関係が重要になってくるのではないか、ということ。「瞬間」の真実は世界(被写体)の側にあるけれど、「瞬間と瞬間のあいだ」の真実は世界と個人(撮影者)とのあいだにあるのではないか。そして「瞬間と瞬間のあいだ」が撮られた写真は、第三者に見られるとき、今度は被写体/撮影者/鑑賞者という三つ巴の関係の場を生成するのではないか。すこし図式的な見方かもしれないけど、そうしたことが写真における抽象ということにも関わっている気がする。*1
今回のアンダースさんの出品作は、故郷であるスウェーデンの海と島をすこしずつ場所を替えながら撮った写真12点(2008年撮影)と、そこに2002年の“Paint”シリーズの2点が挿まれるという合計14点の構成で、全体を組写真として見ることが意図されている。どれかひとつのイメージが支配的になるのではなく、ここでも複数の写真の「あいだ」が問題にされる。
もしかしたら動画を撮りだした影響があるのかもしれないけど、最近の写真は『Spidernets Places A Crew / Waiting Some Birds A Bus A Woman』(SteidlMACK、2004)の頃よりも1点1点のイメージが弱まり、組写真で見せていく傾向があるように思う。しかし「瞬間と瞬間のあいだ」は、人物や動物、走る自動車などが写っている写真ならば共感しやすいものの、はたして海と島と空しか写っていない写真で、なにに依拠してその都度シャッターは切られるのか。そのタイミングはどこにあるのか。そういうことをふたつ目に質問した。答えは、説明できない、しかし重要だ、タイミングは撮影者それぞれで異なり、たとえ同じものを撮ったとしてもそれぞれが別の写真になる、といった内容だったと思う。
以下、映画作品『The Anchorage』(2008)について、共同監督のC・W・ウィンターさんと一緒に受けたインタヴューでの発言。

編集はふたりで一緒にやりました。可能な限りものごとをクリアーにするよう編集しました。この点で、映画と写真集では違いが出ます。写真では、ナラティヴを考える必要がない。ただ類似点もあります。私たちは水で薄められた映像、希釈されたような映像に惹かれます。それ自身だけで成立するほどには強くなく、隣り合う映像を必要とするような映像です。強い映像には興味がないのです。それで、選択肢がいくつかあるときには、一番平板なものを選ぶようにしました。(W&E)
───C・W・ウィンター&アンダース・エドストローム インタヴュー「Difference and Repetition」取材・構成=結城秀勇+松井宏、『nobody』31号、2009.9、p.137

*1:年末の10+1のアンケート回答では、古谷利裕さんの写真について抽象的という指摘をしたけれど()、そこでの「抽象」とはすこし視点がずれている。