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昨日はそのまま常滑に移動して宿泊し、今日、1年ぶり(2018年12月20日)にINAXライブミュージアムを訪れた。今回は時間に余裕があって、すこし街を歩いたり、古今東西の充実したタイルの展示もじっくりと観ることができた(残念ながら堀口捨己設計の陶芸研究所は月曜休館)。
古い伝統的なタイルの多くには、その絵や図に、ある種の雑さがある。手仕事による大量生産がもたらす雑さ(作品意識の薄さ)は、柳宗悦があるべき民藝の条件のひとつに挙げているけれど、特にタイルはひとつひとつ人が手に取って観ることもないし、鑑賞の対象というよりは(そういうものもあるだろうけど)、人から一定の距離をおいて環境として存在することが多いだろうから、それが視覚的な装飾の要素であったとしても、制作上の雑さを許容しやすいかもしれない。むしろこういったタイルは、1枚1枚が厳密に同一であるよりも、それぞれで多少の揺らぎがあったほうが、建築の面を覆う総体として現れたときには豊かであるような気もする。

 沢山作るということは、労働のはげしさや繰返しを意味します。ちょっと考えますと、かかる事情は藝術から遠のく理由になるように思われがちですが、しかし何千万個と同じ品を早く沢山作らねばならぬということは、技術を非常に熟達させ、作る意識を超えさせ、無心で作れるに至ることを意味します。作る者と、作られる物とが分れているのでなく、全く私なき仕事、美醜もなき仕事、つまり仕事が仕事する境地にまで達します。

  • 柳宗悦「無有好醜の願」、『新編 美の法門』水尾比呂志編、岩波文庫、1995年、p.141

もうすこし適した引用がありそうな気がするけれど、しばらく柳宗悦の文から離れていたので感覚が鈍っている。以下、写真4点。
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