建築×写真

東京都写真美術館「建築×写真 ここのみに在る光」展を観た(〜2019年1月27日)。見慣れた写真も多いなかで、初めて見る原直久〈イタリア山岳丘上都市〉シリーズに目を引かれた。対象自体の魅力も大きいかもしれないけど、対象の魅力をそのまま魅力として感じさせるのも建築写真の重要な役割だろう。人物が入ると甘くなりすぎてしまう気もしたものの、客観的に撮られた写真は美しかった。
展示全体としては、有名な写真も多く出展されて見応えがある一方、良くも悪くもキュレーションの印象は薄かった(「ここのみに在る光」という副題だけど、光と影の表現が際立つ建築の写真が集められているというわけでもない)。収蔵作品を中心にした展示で、批評的な視点を設定するのが難しかったのかもしれない。世界初とされるニエプスの写真を指して、「写真と建築の関係は写真の黎明期の時代から密接にかかわっています」という指摘がされているわりに()、写真と建築の本質的な関係を探求するような志向はうかがえなかった(写真と建築の関わりが深いということは、建築を写した写真はそれ自体別段珍しいわけではなく、世の中に無数に存在するということでもある)。
写美の元学芸員である金子隆一氏は、かつて建築雑誌の連載で、一般的・芸術的な「建築を写した写真」と建築界の専門的な「建築写真」とを区別し、後者の「建築写真」は「写真史のなかに存在していない」と書いている(『建築知識』1994年11月号)。確かにそのとおり、「建築を写した写真」と「建築写真」は社会的に明確な棲み分けがされていると思うのだけど、しかしそれでも建築の存在を捉えるという点で通じるところがあるのは間違いないのだから、両者の性質や意味の相異を踏まえた上でなお個々の写真を同一平面上で見比べてみることに、建築写真をテーマにするひとつの確かさがある気がする。今回の「建築×写真」展はそうした問題系は曖昧にされていて、建築畑の人間としてはやや残念だった(出展写真は基本的に時系列で並べられていて、やんわりと「写真史」ないし「建築写真史」を感じさせるようになっているのだけど、その「歴史」はどこまで確かだろうか。例えば展示の最後が瀧本幹也さんの写真ではなくホンマタカシさんの写真だったとしたら、それだけでその「歴史」のあり方はずいぶん変わるはずだ)。特に写美は単なる写真ギャラリーではなく日本を代表する写真の研究機関でもあると思うので、今後の展開に期待したい。
鑑賞後、ミュージアムショップ(NADiff BAITEN)に立ち寄り、号外『建築と日常の写真』と、ついでに別冊『多木浩二と建築』の営業活動。『多木浩二と建築』は阿野太一さんによるテキスト「多木浩二の建築写真を通じて、写真と建築の関係について考える」を載せているほか、著作目録には多木さんの写真論や写真批評も可能な限り記載している。『アサヒカメラ』などいくつかの写真雑誌を通覧してチェックしたりもした。