国立近現代建築資料館「吉田鉄郎の近代──モダニズムと伝統の架け橋」展(11月2日)を再訪し、ギャラリートーク「吉田鉄郎の建築とその現代性」(塚本由晴×豊川斎赫×田所辰之助)を聴いた。豊川さんはご自身の研究対象である丹下健三をめぐって発表。吉田鐵郎と丹下健三の対比は、『建築と日常』No.5()の内田祥哉さんへのインタヴューでも話題になっていたことだった。

───評論家の川添登さん(1926-2015)が、丹下さんの香川県庁舎[*24]の柱梁の構成の原点には東京中央郵便局があると書かれているんです。つまり「吉田鉄郎以来の伝統に立ちながら、新しい方式を打ち出した」と[*25]。これはいかがですか。
内田 今言ったように、吉田さんはなんでも取ってしまわないとザッハリッヒの顔が立たない、しかし取ってしまった時のプロポーションが吉田さんの目に適うものになるかと言うと、そうは簡単にはいかないという辺りに悩みがあったと思う。でも丹下さんの場合は、その辺はわりとあっさりプロポーションに頼ってしまえる。ことに香川県庁舎の辺りはモデュロールを使っていますからね、コルビュジエのプロポーションを意識してやっている。しかしザッハリッヒという点からすると、香川県庁舎はザッハリッヒと言えるかどうか。つまりあの垂木ね。木造ならばあれだけの量も必要なのかもしれないけど、鉄筋コンクリートではどうなのか。そしてそれがもしザッハリッヒでないとすると、そもそもモダニズムと言えるのかどうか。僕は言えないという人も多いのではないかと思う。構造的には不要である垂木を用いることでプロポーションはなかなかいいですけど、吉田さんはそういうことはできないんですよね。そういう違いがあると思う。

  • 内田祥哉インタヴュー「吉田鐵郎の平凡、官庁営繕の公共性」『建築と日常』No.5、2018年、pp.14-16

どういう話の文脈だったか、あるいは文脈を外れてのことだったか、塚本先生が「吉田鉄郎は配筋までデザインしていたのか?」という疑問を口にしたのが印象に残った。たしかに吉田鐵郎ならば配筋まで厳密にデザインしていたとしても不思議な気はしない。吉田鐵郎は徹底した潔癖だったことが知られているけれど、やはり目に見えないものがどうしても気になってしまう人だったのだと思う。細菌にしても配筋にしても伝統にしても倫理にしても目に見えない。