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豊田市美術館「岡﨑乾二郎 視覚のカイソウ」展を観た(〜2/24)。新作も含む大規模な回顧展。午前中から閉館時間までいたけれど、作品数が多く、小さなギャラリーでの新作展のように一つ一つをじっくりとは観ていられない。かつて観たことがある作品も多かったので、個々の作品を鑑賞しつつも、それらの全体のあり方を思い浮かべ、美術館の展示空間にいながら作品同士を体験的に響き合わせるような観方になったと思う。
「視覚のカイソウ」というタイトルは、「カイソウ」を片仮名にすることで様々な漢字の代入を可能にし(回想、階層、回送…)、言葉の意味を宙吊りにする一方、その「カイソウ」の可変性によって「視覚」のほうは自ずと存在が固定化される。しかし、はたして岡﨑さんの作品は視覚という概念を軸に捉えきれるものだろうか。たとえばZero Thumbnailシリーズの作品()が「おいしそう」(味覚的・嗅覚的)というのは多くの人が語るところだし、岡﨑さんの作品に見られる「諸要素の構成によって想像的に生成される関係としての空間」といったような性質は、視覚に根ざしているというより、むしろ視覚優位の認識の形式を批判するものであるように思われる。以下、ふと思い出してしばらくぶりにめくってみた本より。

 およそ私たちの感覚印象は、総合的な知覚、単純にみえるその働きのなかにも総合性をおのずと含んでいる知覚以前に、それを離れてありえない。また、知覚それ自身も、すでに習慣として身についたそれまでの経験や判断に左右されるところが少なくない。その上知覚は、もともと個々の物事よりも全体的な世界、つまりそれらの物事を含みつつ私たちをとりまく世界を対象にしている。たとえ個々の物事を志向する場合でも、そのような〈世界〉の知覚をおのずから、地平として含んでいる。したがって感覚は、知覚をとおして私たちの過去の経験とも世界の全体性とも結びついている。つまり感覚印象は私たちにとって決して直接的なものでもないし、それだけで独立してあるのでもない。

  • 中村雄二郎『共通感覚論』岩波現代文庫、2000年(初版1979年)、p.91

かつてじっくり観た作品()は、その個々の部分をわりと覚えているというか、今日また思い出した。10年くらい前に「犬がいるなあ」と思った経験の記憶は、今や僕がこれまでの人生で実際に犬を見た無数の経験と渾然一体になっているかもしれない。
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一方、これまではあまりぴんと来ていなかったセラミックの彫刻作品()にも今回は興味を惹かれた。岡﨑さんの作品は彫刻でも絵画でも、どちらかというと軽いというか、重力の印象を軽減させる方向で現れてくると思うのだけど、このシリーズはストレートに重いというと語弊があるものの、「重さ」が表現されている。
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下は、前にBankARTでの展覧会(2014年6月21日)で観て印象に残っていた《エンディミオン》(2003)。めずらしく具象の彫刻作品。しかし、たとえばデフォルメされた人物(神様)にかかる重さや外在的な力という観点において上の作品と併せて観ることで、抽象/具象の関係や作者の世界観がうかがえるのではないかということを、展覧会を後にして写真で見返しながら思った。
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