先週の土曜にこれはいよいよまずいなと思って避難用の荷物をまとめようとしたとき、1冊だけ鞄に入れた文庫本が内田百閒の『東京焼盡』(中公文庫)だった。もうすこし落ち着いて考えれば別の本になったかもしれないけど、その縁起でもない名前の本がとりあえずなにかの足しになるのではないかと思ったのだった。太平洋戦争中の東京での日記。

○ナゼ疎開シナカツタト云フニ行ク所モ無カツタシ又逃ゲ出スト云フ気持ガイヤダツタカラ動カナカツタ
○何ヲスルカ見テヰテ見届ケテヤラウト云フ気モアツタ

結局その避難用の荷物はまだまとめられていないのだけど、今日の昼間に本をぱらぱらとめくってみたとき、そういえば学生のころにこの本についてなにか書いたなと思って、パソコンのなかを探してそれを見つけた。映画の本も発売されることだし、せっかくなので、恥ずかしながら(ほんとに)そのまま下に載せてみる。いま書くとしたらもっと違う書き方をするだろうけど、関心や考え方自体はたいして変わっていない。
 
結果への意識
あの9月11日からしばらくして、映画好きを自称する僕はご多分に漏れずハリウッド映画とそれとの関係を考えてみようとした。ただ、いくら世界的な悲劇とはいってもそれを書くことによって僕に実益はないし、とりあえずその文章の分量を水増しできそうな材料を決めるまでに止まってしまっていた。その材料とは、まずサリンジャー(1919-)の「最後の休暇の最後の日」(1944)*1。そして、内田百閒(1889-1971)の『東京焼盡』(1955)*2
すこし遅れてしまったけれど、いま自分のなかに問題意識があるうちにそれを文章として残しておこうと思う。

「最後の休暇の最後の日」は第2次大戦中におけるアメリカ合衆国のある家庭を描いたごく短い小説だ。サリンジャーはその短編のなかで、軍隊から帰りつかの間の休暇をわが家で過ごす、当時の彼と同年代である24才の主人公にこう言わせている。

ぼく厭味をいうつもりじゃないんだけど、でも第一次大戦に行った人たちって、みんな、戦争は地獄だなんて口ではいうけれど、だけどなんだか、──みんな、戦争に行ったことをちょっと自慢してるみたいに思うんだ。(中略)前の戦争にせよ、こんどの戦争にせよ、そこで戦った男たちはいったん戦争がすんだら、もう口を閉ざして、どんなことがあっても二度とそんな話をするべきじゃない──それはみんなの義務だってことを、ぼくはこればかりは心から信じているんだ。

戦争を題材にした「ハリウッド映画」は、まさに戦争を題材にしているにもかかわらず、勧善懲悪という面もちで「反戦」の立ち位置をとっている。いくらそれが9.11のイメージを流布したと糾弾しても、なにいってやがる、俺たちは「反戦」さ、としたり顔でいうことのできる体裁をそなえている。もちろんなかには「映画」としてすばらしいものもあるだろうけれど、しかしサリンジャーがいうような、あるいはロバート・アルトマンが「映画でも見なければ、だれがあんな残虐なことを考えつくものか」と述べたような、無知の人間に対してある選択の可能性を提供したという意味において、それらは誠実ではない。つまり自身の行動による結果を考慮していないことにハリウッドの問題があるのだ。
サリンジャーを体系的に読んでいるわけではないし、彼の生い立ちも知らないから確信を持ってはいえないけれど、この文章は若者にしか書けない類のものだろう。知らない者の強さ。それはときに真実を言い当てる、と同じく若者である僕は思う。
しかし一方でこの真実が、小説中の若者もなかば自覚的だったように、青臭い理想論であることも否定できない。現に世の中には戦争が溢れ、その情報が溢れているのだから、そのなかでは戦争を語らないという行為ももはやニヒリズムのそしりを免れない。

内田百閒の『東京焼盡』がはじめて出版されたのは1955年だが、その内容は昭和19年11月1日から昭和20年8月21日まで、つまり戦時中の日記である。それを戦争から10年の後に上梓した意図はひとまず措くとして、百閒は本書以外にもいくつか日記風の文章を世に出している。この本にしてみても、たまたま戦争をしていたときの日記と、不謹慎にもそう思ってしまいそうなくらい淡々とした日常が、百閒独特のユーモアをまじえて紡ぎ出されている。それは戦争について語っているのではなく、あたかもまったく私的な世界のなかの一部分として戦争が描写されているようにみえる。ここには思わず閉口してしまいそうな被害者意識も、尊大なヒロイズムもない。「敵の空襲がこはいのと、食べ物に苦労するのと、それだけであつて、後は案外気を遣はないのんきな生活」なのである。
とはいえそれが日記としてリアルであればあるほど、そこにあった戦争もまた現実味を持ち得るのだ。そこでは思想がない代わりに戦争という現象が生活に染み込んでゆくさまがありありと見てとれる。日記のなかのある1日をみてみよう。

一月七日日曜日二十二夜。午前五時十分また警戒警報にて起こされた。これで既に三日目の同時刻也。六時十分解除となり、何事もなく済んだ。更めて寝なほし、十一時頃起きた。無為。

こういった記述はこの日に限らない。馬鹿げたことだけれど、もしそれらの日すべてで戦争がなかったとしたら、日記はただ「無為。」だけになるのだろうかと考えれば、どれほど戦争が生活に侵食していたかがわかる。
ほかにも「歩きながら家内に、かうして痛い足を引きずつてやつと家に帰つて玄関を開けて帰つたよと云ひ、上がり口に腰を下ろして汗を拭いて一休みするその家が無くなつたのは困るね、と話した」という文などには、生のままの戦争を痛感せざるをえない。
百閒は神国日本だとか鬼畜米英だとか、そういった実体のあやふやなイメージでは語っていない。戦争を「敵が憎いよりも、味方が意気地がないと嘆ずるよりも、馬鹿気た話だと思ふ事切なり」といい、日記では実際に起こっている事実と自身との関連だけに終始している。そしてこの百閒の即物的な態度が文章にみずみずしい生命力を与えている。東京大空襲で焼け出された5月25日以降の日記に百閒らしい軽やかな語り口が多くみられるのは、おそらく地域一帯が絨毯爆撃を受け、もうこれ以上の空襲はないだろうという安心によるはずだ。また、見方によっては不道徳とも捉えられかねない「上方名古屋の空襲にてこちらは安泰」という言葉や、空襲によって燃えている電柱をみて「昔の銀座のネオンサインの様で絶景」だと思ってしまうことにも彼の実感が溢れている。そしてこの誰に向けられたわけでもない実感にこそ、第三者は戦争のリアリティを感じることができるのだ。
さらに忘れてならないのは、執筆そのものはもちろんのこと、このけっして押しつけがましくなく、あくまで私としての日記を出版するという行為自体のもつ意味だ。百閒の若いころの日記にはこう書き記されている、「日記を書く事は専門家でない芸術家が、詩人としてのすべての人間が、自分の芸術と記録とを最もいい読者なる子供に遺すことである」*3。これこそが「ハリウッド映画」に欠落している結果への意識にほかならない。

*1:J・D・サリンジャー「最後の休暇の最後の日」渥美昭夫訳『サリンジャー選集2 若者たち』荒地出版社、1968

*2:内田百閒『東京焼盡』中公文庫、1978

*3:大正6年9月27日付(『百鬼園日記帖』福武文庫、1992)