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古本で『装飾タイル研究』第4巻(特集:戦後建築に現れたタイル、志野陶石出版部、1978年)を購入。長谷川堯さんが編集企画したシリーズ。『建築と日常』No.5()に寄稿していただいた福田晴虔さんが、「土の織物──谷口吉郎におけるタイル」と「セラミックスの甲羅──前川事務所の打込みタイル」という評論を寄せている。全7巻のラインナップは以下のとおり。

  • 1 タイルとイスラム建築
  • 2 アール・ヌーヴォーとタイル
  • 3 陶壁造型の世界
  • 4 戦後建築に現れたタイル
  • 5 東洋が生んだタイル“塼”
  • 6 オランダタイルの流れと影響
  • 7 現代イタリア・タイルの世界

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11月1日にプレオープンしたHareza池袋で、岡﨑乾二郎さんによる壁画作品《ミルチス・マヂョル / Mirsys Majol / Planetary Commune》を観た。3棟にまたがって連続し、大きく分けてタイル部分とガラス部分とがある。

この作品は、岡﨑さんが監修した『美術手帖』2008年8月号(特集:現代アート基礎演習)を参考にすると理解が深められるかもしれない。ガラス部分がクレー的(物質的な透明性)、タイル部分がアルバース的(論理的な透明性)と言えると収まりがいいけれど、実際にはガラス部分も多分にアルバース的。タイル部分にはグロス/マットの質感の違いや微妙な凹凸もある。

透明とはなんでしょうか? 同じ一つの場所に同時に二つ以上の物体が在ることはできません。透明とは、にもかかわらず、それらが同時にそこに在ると感じられること。あるいは、その二つ以上の両立しない要素が重なりあって相互に浸透し、連続して見える状態です。
例えば、水彩は色を上に重ねても下の色が透けて見える。二つの色の重なりはもう一つの中間の色を生む。でも、この方法では二つからつくり出されるのは一つです(物質的な透明性)。水彩によるクレーの絵はこの方法を洗練させ、二つの色を結ぶ間に無数の美しい諧調をつくり出しています。対してアルバースの絵は不透明色で、たった4色で塗り分けられているだけ。にもかかわらず、どの色と色の間にも、呼吸と浸透、つまり透明な拡がりが感じられる。どの色と色も、そのつど異なる形で結びついたり離れたりを繰り返しているからです(論理的な透明性)。色彩と色彩の終わりなき会話、無数の言葉。

  • 『美術手帖』2008年8月号(特集:現代アート基礎演習)、p.17

岡﨑さんによるパブリックアート系の作品(2010年2月2日)は、ホワイトキューブで観るような自律的・専門的な鑑賞に対応するとともに、いかにも作品然と主張することがなく、その場の環境になじみながら多くの人にとっての豊かな背景にもなる大衆性を持っていると思う。今の日本の都市において、これだけの規模で日常のなかに「作品」が成り立っているということに、希望のようなものが感じられる。以下、写真4点。

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国立近現代建築資料館「吉田鉄郎の近代──モダニズムと伝統の架け橋」展を観た(〜2/11)。名前の表記を「鉄郎」にするか「鐵郎」にするかは議論があったそうだけど、結局現時点における一般性を優先させたらしい。図面を中心にした充実の展示で、少なくとももう一度は訪れて、じっくり観る必要がある。
去年の『建築と日常』No.5()での吉田鐵郎の記事(全26ページ)とは相補的な内容と言えるかもしれない。タイトルが示すように、この展覧会では吉田鐵郎を歴史的・時代的な枠組みのなかで捉えようとしているけれど、『建築と日常』では建築家本人や周囲の人たちの言葉を多く参照しつつ、むしろ歴史や時代の枠組みを超えて実感できる存在として、吉田鐵郎を人間的・思想的に捉えようとしていた(そのスタンスの違いは展覧会と雑誌というメディアの違いでもあるかもしれないし、プロとアマチュアの違いでもあるかもしれない)。
図面を読むのが苦手な僕でもこの展示にこれだけ興味が持てるのは、やはり去年の特集で吉田の人間像をはっきり掴むことができたからだと思う。人間を知っていると、その人の創作物により深く触れることができる気がする。だからこの展覧会に興味を持っている人には『建築と日常』No.5を読んでから観に行ってほしいし、展覧会を観て吉田に興味を惹かれた人には『建築と日常』No.5を読んでほしい。利己的な宣伝目的としてだけでなく、そう思う。国立近現代建築資料館にショップがあれば、ぜひ雑誌を置いてもらいたかった。

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一昨日、Bookshop TOTOで買った本。『Kazuo Shinohara: View From This Side』(Rollo Press、2019年)。1970〜80年代に篠原一男が海外で撮影した写真99点がまとめられている。

いろんな建築や町並みが写っているので、単純にその対象物を見て楽しむこともできなくはないけれど(ただし写真のサイズが小さく、画質も良くはない)、やはり「篠原一男が撮った」というところに特別な意味があるのだろう。僕自身は篠原一男についてそれほど確かに把握しているわけではないので、今の時点でこれらの写真から様々な連想が広がっていくということはないのだけど、篠原一男がどこへ行ってどんなものを見ていたのかという資料的な意味だけでなく、それぞれの写真の撮り方において、建築家としての創作と響き合うものが感じられたらとても面白いのだと思う。香山先生の『建築のポートレート』(2017年3月1日)を作っていたときも、そんなことを考えていた。

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昨日はその後、国立新美術館で「カルティエ、時の結晶」展を観た(〜12/16)。会場構成は新素材研究所。MOA美術館(2017年4月14日)での展示手法をベースにしつつも、特定の展示物を見せる仮設の企画展という条件下で、より濃密なインテリアのムードをつくりだしている。日本美術・東洋美術を中心とするMOA美術館では正統性があったはずの素木の古材や畳などの構成要素は、ここでは歴史的にまったく異質なものと掛け合わされており、そこで生まれる世界の「いかがわしさ」こそむしろ杉本博司の真骨頂と言えるかもしれない。カルティエと渡り合いつつ(?)、これだけのお金をかけた展示計画を成り立たせるといったことも含めて、他の建築家にはなかなか真似のできない仕事だと思った。以下、写真は展示終盤、撮影が許可されていた個所のみ(他にもいろんな展示形式がある)。

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TOTOギャラリー・間「アーキテクテン・デ・ヴィルダー・ヴィンク・タユー展 ヴァリエテ/アーキテクチャー/ディザイア」を観た(〜11/24)。すこし長く感想を書いてみたのだけど、思い直してすべて消してしまった。


先月(9月14日)の展覧会で購入した絵をqpさんが家まで届けてくれた。セル画で光を反射するし、そんなに軽くもないので、適切な置き場所を見いだすのが難しい。仮の位置でしばらく部屋に馴染ませてから考えたい(と思っていると、案外その仮の位置に落ち着いてしまったりする)。

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『建築と日常』を始めたとき、ともすると無自覚のうちにその型に嵌められてしまうジャーナリズムやアカデミズムの文体ではなく、ブログのような文体で自分の文を書きたいと思っていた(そのことは雑誌名の「日常」にも通じる)。自我という言葉がどういう意味をもつのか、昔からいまいち実感がないのだけど、「近代的自我」の権化として悪者にされがちなデカルトの、次の文で指摘されるようなところは見習いたいと思っている。

「一番最初に原語で読んだ哲学書はデカルトの『方法序説』でした。これを読んで、このように素手で書いていいものなのだ、と衝撃を受けました。本当の哲学というものと哲学史というものとを分けて考えることができるようになったのは、デカルトの『方法序説』を読んだときからでした。」(多木浩二『映像の歴史哲学』みすず書房、p.11)

次のは自我の尊重を謳った白樺派についての指摘だけど、こんな白樺派も見習いたい。

「白樺派の文体について、柳と同級生だったことのある里見弴は、そこに集まった青年たちが文体上さけようとした点として、「いい子病」「意味ありげ」「知ったかぶり」の三点をあげている(里見弴「二三の神経」『銀語録』相模書房、1938年)。
「いい子病」というのは、この社会で権威ある者のところに身をすりよせて、自分の善い面ばかりをあれこれ言っていい子になりすますような文体のこと。
「意味ありげ」というのは、五の内容を十あるいは二十にも見せようとする言いまわしのこと。青年時代には、わかるということが平凡に感じられるもので、そこで「意味」よりも「意味ありげ」を重んじるようになるのだが、白樺派の間ではその「意味ありげ」をいやみと感じてやっつける気風があった。わからないところは仲間がその場で説明することを求めるので、自然にかれらは、そろっておしゃべりになったという。文体の上では、やさしい言葉をえらんで使うようになった。
「知ったかぶり」というのは、自分の知らぬことを知っているようなふりをすること。このために、白樺派では、学問は重んじられなかった。勉強家の柳宗悦や児島喜久雄は、不必要な引用にかざられた学者風の文体をまぬかれるよい訓練の機会をもった。」(鶴見俊輔『柳宗悦』平凡社、pp.143-144)

デカルトや白樺派のことはよく知らないけど、自我というものが既成の学界や学閥、世俗的な人間関係やポジショニングへの意識から離れて自律的・主体的に思考する根拠になっているのだとするなら、それは安易にくさして済むようなものではないだろう。またその意味での自我は、必ずしも独善的な態度を導くのではなく、信仰や倫理や常識などを基盤にして、他者とも通じ得るのではないかと思う。自我と無私とが両立するような状態として。

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昨日撮った近所の公園の写真。奥にある公衆トイレは自律的・平面的なファサードの構成法やそのプロポーションにヴェンチューリの影響がうかがえる。

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台風一過の朝。空気が澄んで、光がきれいだ。近所では恐れられていたほどの被害はなかったようで、折れた傘を何本かと、くたびれた感じのハトを見かけたくらいだった。以下、写真3点。

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金沢旅行2日目(10月4日)は朝から強い雨。みぞれのようにも見える。ホテルの部屋で外の様子をうかがいつつ、コピーしてきた建築の資料から目についた言葉を拾って発したツイート。


金沢に来て行かないわけにはいかないと思って行った兼六園も、とても落ち着いて観ていられる感じではなかった。
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金沢初日の夜は、ホテルから鞍月(くらつき)用水沿いを歩いて夕食を食べに行った。橋詰めに建つ木造家屋を改修したお店で、通りを見下ろす2階の大きな窓からの眺めがとてもよかった。道行く人も、地元の人と旅行者、日本人と外国人とがほどよく混じり合い、開放性を湛えている。飲んで食べた後、ほろ酔いで歩いて帰る水路沿いの道のりもまたよい。金沢でしかありえない体験ということもないだろうけど、都市の豊かさを感じさせる。以下、写真2点。

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前にも訪れたことがある《金沢21世紀美術館》(設計=妹島和世+西沢立衛/SANAA、2004年竣工)は2日目に行こうと思っていたのだけど、ちょうどホテルに向かう途中にあり、まだ日も落ちていなかったので、すこし立ち寄ってみた。結局、翌日は本格的な雨になったので、もっとちゃんと写真を撮っておけばよかったと思う。とくに建物の全体像と周辺環境との関係が見て取れるような遠景写真。
いくつかの建築を観たなかでもっとも心を惹かれたのが《金沢市立玉川図書館》、と最初(10月3日)に書いたけれど、やはり《金沢21世紀美術館》は現在の金沢にとっておそらくもっとも重要な建築であり、現代を代表する建築のひとつなのだと思う。今となってはこの敷地に他にどういう建築が可能だったか、想像することが難しい。以下、写真6点。

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鈴木大拙館を後にして「金沢くらしの博物館」へ。旧石川県第二中学校本館(重要文化財、設計=山口孝吉/石川県技師、1899年竣工)を活用した博物館。「昭和のこどもと遊び」という展覧会が開催中で(〜11/17)、ここで見なければこの先の人生で一度も見ることも思い出すこともなかったと思えるような、個人的に強い懐かしさを感じさせるおもちゃも並べられていた。
この「金沢二中」は谷口吉郎の母校らしい。谷口の家があった「谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館」からずっと歩いてきたので、実際のルートは違うとしても、100年ほど前、10代の谷口は毎日こういう道のりを学校まで通っていたのか(Googleマップで現在の最短距離を調べると2.2km)という感慨を覚えた。その過去に対する想像のリアリティは、現実の建物から与えられる「谷口はこの校舎を使っていたのか」という想像のリアリティよりもなぜだか強い。

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金沢旅行1日目。《鈴木大拙館》(設計=谷口吉生、2011年竣工)。これはむしろ街との断絶、建築の自律性や超越性が、プログラムとして積極的な意味をもつ建築だろう。谷口吉生の作家性が存分に活かされていると思う。鈴木大拙のことを多少でも知っておいたほうがよいと思って(柳宗悦関連でも気になっていた)、『日本的霊性』(岩波文庫、1972年)を買っていたのだけど、読むのが間に合わなかった。ただ、この建築のあり方を鈴木大拙の思想のあり方と厳密に結びつけようとしたり、この建築の(いかにも意味ありげな)意匠の謎解きをしようとしたりする必要はあまりないのではないかと思う。もし近所に住んでいたら、たまに気が向いたときに訪れて、ぼんやりと時間を過ごしたいような建築。