昨日の帰りの車窓からの眺め。甲府駅を通過したところで、《山梨文化会館》(設計=丹下健三、1966年竣工)が見えると思ってiPhoneで撮影した。客観的に見てまったく取るに足らない映像だとは思うものの、動画を撮るのに慣れていないせいもあってか、自分にとっては妙に新鮮に感じられる。電車がホームに滑り込むとか、滑り出すとか、慣用句としてよく言われるけれど、そういう印象が現実の体験よりも強い。漠然とした空間的・時間的広がりをもつ高次元の現実の体験が、2次元のフレームで区切られ、ある種の抽象として体験されるためだろうか。その抽象化の過程で、おそらく音(車内放送)の存在も相対的に現実の体験より強まっていて、電車内の空間/電車外の空間/音、という3つに対する知覚のバランスが変化し、そのことも映像体験の新鮮さに繋がっている気がする。

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『ザ・藤森照信』(エクスナレッジ、2006年)の取材以来で、山梨県の清春芸術村を訪れた。前に来たときには藤森さんの《茶室 徹》(2006年)以外はほとんど観る余裕がなかったのだけど(それは他の建物への関心が低かったということでもあったと思う)、今回は多くの建物をしっかり観ることができた。たぶんこの十数年で僕の建築観や歴史観もずいぶん変わったはずで、以前はなんとなくアナクロに見えていたギュスターヴ・エッフェル設計の《ラ・リューシュ》(1900/1981年)も、この日本の山あいの町にいきなりそれを持ってくるというところにシュルレアリスム的なただならないものを感じる(上写真参照。移築ではなく再建)。《ラ・リューシュ》は今も現役でアーティストの滞在型アトリエとして使われていて、その影響もあってか、往時の文化の雰囲気を漂わせている。階段室を中心にした放射型の全体構成やそれに基づく各個室は、こぢんまりしたほどよいスケールであり、形式的な空間が古臭くなくみずみずしい。
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谷口吉生の初期作品である《清春白樺美術館》(1983年)もすばらしかった。内部は起伏に富んでさまざまな場がつくられていて、その後の超越的で極度に洗練された作品にはない生き生きとした不純さが感じられる。
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もともと基本計画には谷口吉郎(1979年没)が関わっていたようだけど、展示されていた初期の模型写真らしきものがその当時の案だろうか(下掲)。今よりも全体の幾何学性が強い。現状の《ラ・リューシュ》のいくぶんぶっきらぼうな配置や《清春白樺美術館》の相対化/複合化された軸線は、この初期案の名残なのかもしれない。
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以下、写真3点。

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電車に乗ってぼんやりしていると、夢をもつことの大切さを若者に説くような広告が目に入った。新年度というせいもあるのかもしれない。その広告自体の浅はかさはともかく、「夢をもつことの大切さ」という一般に信じられている観念についても、全否定したいとまでは思わないけれど妙に引っかかってしまう。「明日に頼らず暮らせればいい」(佐藤伸治)とか、「人類が最後にかかるのは、希望という病気である」(サン=テグジュペリ)とかいう言葉に共感するためだろうと思う。たとえば「夢をもつことの大切さ」よりも「理想をもつことの大切さ」のほうがぴんとくる。

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鍋を洗っていたら取っ手が折れた。もともと実家にあった鍋だから、もう何年使われたか分からない。小ぶりで薄くて使いやすかった。捨てたら無くなるので、せめて遺影のつもりでここに残しておきたい。

《から傘の家》(設計=篠原一男、1961年竣工)を見学。写真撮影は内外とも禁止(下村純一撮影で『藤森照信の原・現代住宅再見』(TOTO出版、2002年)に載っている写真と、今もとくに雰囲気は変わらない)。よい建築には違いないが、言葉で捉えようとすると難しい。よく言われるように幾何学性が強いと言えば強いけれども、それほどでもないと言えばそうも言えそうな気がするし、伝統性が強いと言えば強いけれども、それほどでもないと言えばそうも言えそうな気がするし、閉鎖性が強いと言えば強いけれども、それほどでもないと言えばそうも言えそうな気がする(たとえば上記の本で藤森さんは、日本近代建築史の文脈でこの住宅の「内向性」を特筆しているけれど、実際に現代の一般的な住宅と比べて内向的あるいは窮屈で息苦しいという印象はない)。なにを基準にするかで相対的な意味合いが変わってくる。ということはつまり、それらの高度な次元でのバランスに秀でているということだろうか。

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昨日たまたま通りすがりに目にした《カトリック築地教会》(設計=ジロジアス神父+石川音次郎、1927年竣工)。重機が入って大がかりな工事がされているようだったけど、聞けば解体ではなく改修であるらしい。藤森さんの本で知って学生時代に観に行ったギリシア神殿風の木造建築。当時は築70年あまりだったのが、今はもう築90年あまりになっている。

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《上小沢邸》(設計=広瀬鎌二、1959年竣工、改修設計=神保哲夫)を見学。解体を控えた最後の見学会だという。この建物の概要や改修の経緯については以下のサイトに詳しい。

見学した印象としては、時代性は感じるけれども思想性は感じないというか、例えば同時期の清家清の住宅と比べて作り手の気配をうかがわせるということがなかったのだけど、後日、坂本先生との雑談でその話をしたところ、坂本先生は近年の焼肉屋時代に初めて訪れ、強い精神性を感じられたという(清家清との比較については定かでない)。僭越ながら僕は坂本先生も僕の印象に共感してくださると思っていたので、その感想は意外だった。先生の話しぶりから察しても、たぶん僕の観る目の浅さということだと思うけれど、あらためて建物を観てみたいと思ったところで、もう実物を訪れることはできない。

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久しぶりにネットオークションを利用した。谷口吉郎『清らかな意匠』(朝日新聞社、1948年)。刊行当時の定価が170円だったものを2000円で落札。著者自身による装幀。カバーがかなり傷んでいるので、うまくグラシン紙でも巻きたいところ。
同じく絶版の『谷口吉郎作品集』(淡交社、1981年)は、今年夏の「谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館」()の開館に際して、淡交社から新版が出版されるらしい()。去年、『雪あかり日記/せせらぎ日記』(中公文庫、2015年)の書評(2018年10月20日)を書くために図書館で借りて目を通した『谷口吉郎著作集』(全5巻、淡交社、1981年)も、本当なら手元に置いて、じっくり読み込んでみたい。

先月、柴崎友香『公園へ行かないか? 火曜日に』(新潮社、2018年)を読んで、「一般的にカテゴライズするならエッセイの類いになる内容だろう」と書いたけれど(2月3日)、この作品がエッセイではなく小説とされていることについて、作者の柴崎さん自身の発言があった。

紀行文やエッセイと思って読んでもらっても全然構わないんですけど、自分としては小説という形で書きたいというか、小説を書くという経験の中で考えたい。その回路で物事を考えたかったというのはあります。

  • 対談=柴崎友香・滝口悠生「エモーショナルな言語を探して」『新潮』2018年11月号

柴崎さんが言う「小説の回路」がどういうものなのか、はっきりとは分からないけれど、たしかに柴崎さんの他の「エッセイ」と比べてみると(じつは柴崎さんの「エッセイ」は「小説」ほど読んでいない)、『公園へ行かないか? 火曜日に』は異質であるかもしれない。ただ一方で、下のような言葉でかたどられている柴崎さんにとっての「小説」は、僕が認識している「essai(試み)」のあり方と、必ずしも相反しない気もする。

でも、小説かエッセイかで何がいちばん違うのかと言われたら、結局自分が「これが小説だ」と思って書くかどうかで、それはつまり、考える回路が違うということなんですよね。
 それと私の場合、エッセイは誰にこの話をしてるのかという対象がある程度はっきりしていて、それを読む人にちゃんとわかるように説明するみたいな気持ちがあるんですが、小説はそういうのとはまたちょっと違って、もっと抽象的な「誰か」に向かって話している感じなんですよね。そこが違う。

 そもそも私は、自分の外のことを書きたいんです。自分自身の内面を表現したいという気持ちはなくて、自分の外側の面白いことや興味があることを小説に書きたいと思うタイプなので、場所や体験の面白さの方が優先されるのかもしれないです。それに比べたら、自分のことかどうかっていうのは二の次だったのかも。

 自分自身のことは材料なんです。表現する目的とかではなくて、自分が書きたい何かにとっての材料として自分がそこにあるので、それを使って書くという感覚に近いのかなと思います。さっきの小説とエッセイの違いという話とも関係するんですけど、架空のことを書いたらフィクションで、事実だったらノンフィクションというわけではないですよね。結構そこで区別されたりもするんですが、本当はそうではなくて、フィクションはフィクションの回路や想像の仕方で書いていることが重要であって、事実かどうかが境目ではない。
 もちろん明快に分けて説明できるわけじゃないから、小説とは何なのかは書きながらずっと考えていることではあるんですけど、今まである程度書き続けてきた中で、フィクションにとってもとになるのが事実や実体験かどうかはまた別の問題だっていう気持ちが、私の中では強くなってきています。

進歩が抗し難い力を持つと考えた者は左翼に属した。右翼に属したのは、それに対して慎重であるよう忠告した人々で、自ら保守派と名乗ったが、彼らの敵対者たちは彼らのことを反動と呼んだ。誠に残念なことに、われわれは、政治そのものにおけるこの単純な図式が、多くの状況の複雑な現実を歪曲し、誤らせたのを体験してきた。(pp.1-2)

エルンスト・H・ゴンブリッチ『芸術と進歩──進歩理念とその美術への影響』(下村耕史・後藤新治・浦上雅司訳、中央公論美術出版、1991年、原著1978年)を読んだ。この高名な美術史家の著作はほとんど読んだことがないのだけど、おそらく彼自身は「進歩が抗し難い力を持つと考えることに対して慎重であるよう忠告した人」であり、単なる学習のための読書という以上に思想として共感できる気がする(よく知られている『美術の物語(美術の歩み)』も読んではいないけれど、図書館で前書きに目を通しただけで信頼できる人だと思った)。
この本で主に彫刻と絵画を通して論じられている芸術と進歩理念の関係は、建築の分野で考えても興味深い変奏を見せるかもしれない。というか僕が知らないだけで、すでに書かれていてもごく当然のようにさえ思われる。個人作家の作品歴という枠組みで見れば、『建築家・坂本一成の世界』(LIXIL出版、2016年)で各作品の並べ方について考えていたこと(時系列という一般的な形式を採用しつつも、その形式がまとう線的な進歩史観をいかに相対化するか)にも響いてくる(2016年10月17日)。既成事実化された「歴史」に対する批判意識は、近年の岡﨑乾二郎さんの態度にも通じるかもしれない。以下、抜粋メモ。

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