「吉田鉄郎 海外の旅」(1932年、サイレント、51分)という記録動画が「フィルムは記録する ―国立映画アーカイブ歴史映像ポータル―」で公開されている。

逓信省営繕課の技師として逓信建築の設計に従事するとともに、その他の公共建築、住宅、記念碑などの設計にも尽力した吉田鉄郎が、後の国際交流のきっかけとなった欧米への1年間の視察旅行を記録した紀行映像。

不明な場所も多かったけど、欧州各都市、単に歴史的な資料映像ではなく、吉田鐵郎の旅を追体験するようで見応えがあった。現代建築はストックホルム市庁舎やデッサウのバウハウス校舎なども。『建築資料 吉田鉄郎・海外の旅』(向井覚編、通信建築研究所、1980年)と照らし合わせて観るとよいかもしれない。

写真家の今井智己さん。ありがとうございます。


解体作業が進む東京海上日動ビル(東京海上ビルディング、設計=前川國男、1974年竣工)。下のは2年前の写真だけど、同じくお堀端、東京海上ビルが中央奥で、右端で見切れているのは谷口吉郎が設計した帝国劇場(1966年竣工)。帝国劇場も2025年をめどに閉館し、建て替えの予定だという。

前川國男と谷口吉郎は東京帝国大学の同級生。下の文の堀口捨己はその10年くらい先輩。

東京のうちで一番きれいな所はどこだろうか[…]。都市計画的にみても、建築という例からみても、あるいは庭園という側からみましても、どこであろうか。この質問に対して、私はもうまっ先に、江戸城の跡である今の宮城の、お堀の辺。あの辺の松の木や、池や、石垣のあいだ。あの辺の所が非常にいいと思うんですね。あそこでこそ、日本らしいということもできますし、優れたものと思うのであります。

  • 堀口捨己「庭園序説」1968年明治大学講義(『堀口捨己建築論集』岩波文庫、2023年)

確かにお堀端はいま訪れても魅力がある。しかしこの堀口の言葉は、現在まさに取り壊されようとしている東京海上ビルディングが建つ前、帝国劇場ができた頃のものだった。いまでこそ東京海上ビルの取り壊しに際して「古い建物を守れ」というようなことが言われるけど、当時お堀端に建設されるこれらの新しい建物について、堀口あるいは堀口ら年長世代の人たちはどう見ていただろう。

『キッチン革命』第2夜(テレビ朝日、92分)を観た。浜口ミホ+日本住宅公団をモデルに、1950年代のダイニングキッチンの開発を描いたテレビドラマ。当時の史実を詳しく知っているわけではないけど、フィクション化の度合いがかなり強い印象。そのためか主人公の名前も「浜崎マホ」にされている。

三軒茶屋駅徒歩5分の書店twililightを初訪問。以前から別冊『窓の観察』の取り扱いはあったのだけど、こんど『精選建築文集1 谷口吉郎・清家清・篠原一男』も置いてもらえることになった。
その後、池尻まで歩き、新しくできたOFS GALLERYで「服部一成展」を観た(〜4/23)。新作を中心としたポスターの展示で、写真(色が濁ってしまった)は今回の新作のうちの一組。

よく見ると左右で単純な色違いでなく、線の量も違っている。ふと描かれているのが金魚だと意識すると、色の組み合わせもマティス的に見えてくる。深読みかもしれないけど、平面上で要素同士の関係性を探りながら全体をある状態に構成しようとするプロセス自体にマティスとの連続性が感じられる。リンゴのほうは図像性や図と地の関係性などにおいて、マグリットの問題と繋がってくる(イスはなんだろう)。グラフィックによる絵画の思考の展開。
ギャラリーと隣り合うショップで、服部一成『Paper Cats』(BON BOOK、2021年、サイン付き)を購入。ペーパークラフト+写真の表現で(平面→立体→平面)、こちらもメディアを横断する開放性を含んだ作品。



六本木のSCAI PIRAMIDEで、赤瀬川原平写真展「日常に散らばった芸術の微粒子」を観た(〜3/25)。現代美術のアーティスト6名が、故人の未発表写真4万点から各々の視点で約20点ずつ選出するという企画。アマチュア写真家としての赤瀬川さんの作家性や、写真という媒体の性質も浮かび上がらせる良い企画だった。路上観察系の写真で一つの意味(タイトル)に回収されるもの、一義的には捉えがたい不思議さを持ったもの、特に不思議ではないけれども目を惹かれるもの、「芸術の微粒子」と括れるもの、括れないもの…。芸術家としての赤瀬川さんにとって作為/自然という観点は重要だったと思うけど、アマチュア×写真×未発表×複数選者という企画の枠組みが、その意識のありようを浮かび上がらせている気がした。
上の2点は赤瀬川邸《ニラハウス》(設計=藤森照信+大嶋信道、1997年竣工)のテラスと、それ以前に住んでいた建売住宅での写真。どちらも選=中村裕太。

『ケイコ 目を澄ませて』(2022年12月31日)、『どついたるねん』(2023年2月4日)、『ミリオンダラー・ベイビー』(2023年2月24日)からの流れで、ジョン・G・アヴィルドセン『ロッキー』(1976)をプライムビデオで観た。その流れと別に、ハワード・ホークス『赤ちゃん教育』(1938)、『モンキー・ビジネス』(1952)も観た。
どういうわけかサブスクだと、ホークスやルビッチやロッセリーニらの観ればそれなりに印象深いだろう映画よりも、映画館やレンタルでは決して身銭を切って観ることはないような映画をつい選んでしまう。

芝山努『ドラえもん のび太の魔界大冒険』(1984)をプライムビデオで観た。脚本が藤子・F・不二雄。幼稚園児だった頃、友達の家で観た映画版「ドラえもん」のビデオのなかで最もよかったという記憶がある作品。作り手の教養が感じられて、やはりよくできていると思う。いくつかのシーンはうっすらと覚えていた。石像が空から落ちてくるところ、庭の彫刻が動いて矢を放つところ、空飛ぶ絨毯に内部空間があるところ…。今の目から見れば(決して過激ではない)なんてことのないシーンだけど、それぞれのシーンが子供の心に残るようなものであることはなんとなく察せられる。明確な構造的アイデアを軸にしつつも、ストーリーやキャラクターを図式的にわかりやすく強調していくのではなく、観る人に様々に響いてくるような豊かな細部を積み重ねていく作り方。これは以前(2021年4月24日)このブログで触れたアニメ版『キテレツ大百科』にも通じる。

ジム・ジャームッシュ『デッド・ドント・ダイ』(2019)をプライムビデオで観た。『パターソン』(2020年1月5日)がよかったので劇場公開時に観に行こうかと思ってもいたのだけど、これは行かずによかった。本当はより高級なセンスを持っている人が、ジャンルへのオマージュなしに作ったB級ホラーのパロディという感じ。古谷さんの見方はなるほどなと思うけど()、古谷さんも書かれているように、仮にそういう寓意がこの作品に込められていたとしても、そのことによって映画を面白く観られるわけではない。監督はこの映画を本当に作りたかったのだろうか。

清水宏『小原庄助さん』(1949)をプライムビデオで観た。音質不良。旧家の戦後の没落のありさまを、人柄(個性)・家柄(伝統性)・時節柄(時代性)の複合として描く。漂うユーモアとペーソス。映画の作り方は違うかもしれないけど、清水宏が小津安二郎の親友だった(Wikipediaより)というのは納得できる。旧時代と新時代へのまなざし、全体性と個性へのまなざし、ユーモアの感性、つまりは人間観みたいなものが通じる気がする。清水宏は10年ほど前にレンタルで何本か集中的に観ていた(2012年10月10日12月29日)。


富永讓+フォルムシステム設計研究所の内覧会。築40年、壁式RC造2階建てのアパートで、2階の2住戸を繋いでオーナー住居に改修する計画。あえて界壁に穴をあけることはせず、屋内化させたベランダによって、2つの領域を隔てたまま繋ぐ。以下、写真2点。

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ずっと公共建築のコンペに挑戦して…連続で入賞していきましたが、取る度に…段々、友達をなくしていく感じがありました。もう最後だから言うけど、建築家の男性の嫉妬深さにいじめられていましたね。篠原先生でさえ、段々冷たくなってくる。

日本建築学会のウェブマガジン「建築討論」で、長谷川逸子さんへのインタビュー「女性と建築の半世紀」を読んだ。建築界で受けた女性蔑視の経験が語られるなか、唯一名前が挙げられているのが篠原一男。ただし、「段々冷たく」の内容と原因はこのインタビューでは具体的に確認できない(篠原は気難しい人で知られているから、性別や年齢を問わず、疎遠になった人は少なくないだろう)。一般論として、ある人が社会で成功したとき、同業の「友人が遠のいていく」のはある程度仕方がないというか、(悪意で攻撃でもしてこない限りは)その友人の自由でもあるだろう。そのあたりどこまでが非難すべきことなのか、どこまでがジェンダーに起因することなのか、明確に線を引くのは不可能だけど、現代の情報環境および社会の風潮では、すべて一緒くたにフェミニズムの問題として拡散しやすい。ワンクリックで簡単にアクセスできるネットの文章だから、きちんと文意を捉えながら全体を読み通す人ばかりではなく、より刺激的な内容を求めて目につく単語単位で飛ばし読みするような人もいるに違いない。そういう状況下で、はたして「篠原先生でさえ、段々冷たくなってくる」という言葉は、話者がそこで思い浮かべている内容どおりに誤解なく受け手に届くだろうか。僕は言葉が不十分ではないかと思う。もし僕がこの記事の編集担当であれば、原稿作成の段階で、この部分についてあらためて話者に内容を確認して言葉を補完するか、それができなければ一文をカットする気がする(自分の言葉が誤解されて広まるのは話者にとっても不本意だろうし、このインタビューの雰囲気からすれば、相談自体は気兼ねなくできると思う)。
インタビューの場で話者が口にしたままの言葉が唯一真正なわけではないし、多様な解釈に開かれた文章が常に最善であるわけでもない。そういう意味で、「同世代の建築家の一人」である「エキセントリックな人」という部分も、読者に不要な想念を生ませる曖昧さを含んでいる。はたして前述の「建築家の男性の嫉妬深さ」とは、この人物がした行動に代表されるようなものと理解してよいのか。篠原一男は名前を出しているのに、より実質的に非があるらしいこの人物の名前はなぜ伏せられているのか。にもかかわらず「今では娘さんも建築の仕事をしている」という妙に具体的な情報は、その長谷川さんと同世代の建築家が誰なのか、今まさに建築界で働いている女性も巻き込んで余計な勘ぐりを生むのではないか(長谷川さんに近い同世代の建築家としてまず多くの人が思い浮かべるのは伊東豊雄さんだろう。ほかに富永讓、坂本一成、安藤忠雄…。うっすらとした疑念が、事実を確かめようもないまま無限定に人々の間に広がっていく)。下世話なネットニュースなら、そうやって事実の輪郭を曖昧にして読者の想像を掻き立てるのは常套手段だろうけど、当然この企画の趣旨はそんな次元にないだろう。
記事の全体は、今の長谷川さんにしか語れないことを引き出していて有意義だし、だからこそ大きな反響を生んでいるのだと思う。しかしその反響の大きさゆえに、この記事の言葉が持つ曖昧さを指摘しておきたくなった。語られていること自体は数十年前のことで、とりあえず現在進行形の緊急性があるわけではないのだから、学会の活動らしく、現代の問題につながる歴史的事象として、より丁寧かつ確実に位置づけるべきことのように思われる。

富永讓さんが語る卒業設計@横浜国立大学。それぞれリンク先からインタビューの全文(PDF)にアクセスできる。これだけ確かな知見を持った方が、非常勤講師の立場でこれだけ真摯に学生に向き合ってくれるのはすごく貴重なことだろう。語られている設計作品を知らなくても読んでいて面白い。卒業設計のコンテストみたいなものについては毎年ネット上でも話題になっているけど、そういうものになんとなく疑問や違和感のある若い人は読んでみるといいと思う。


『建築と日常』No.3-4の大江宏の企画で協力してもらった石井翔大さんの著書『恣意と必然の建築──大江宏の作品と思想』(鹿島出版会、2023年)。博士論文の研究をもとにした端正な評伝。
大江宏(1913年生まれ)は谷口吉郎(1904年生まれ)に一目置いていたようだけど、両者はいろんな点で重なる気がする。日本の文化に深く根ざした家系、モダニズムへの接近と乖離(同級生に代表的建築家──前川國男/丹下健三)、物事を一元化しない相対的思考、身体感覚としての日本の伝統…。後日、石井さんとスペースでトークする予定です。