進歩が抗し難い力を持つと考えた者は左翼に属した。右翼に属したのは、それに対して慎重であるよう忠告した人々で、自ら保守派と名乗ったが、彼らの敵対者たちは彼らのことを反動と呼んだ。誠に残念なことに、われわれは、政治そのものにおけるこの単純な図式が、多くの状況の複雑な現実を歪曲し、誤らせたのを体験してきた。(pp.1-2)

エルンスト・H・ゴンブリッチ『芸術と進歩──進歩理念とその美術への影響』(下村耕史・後藤新治・浦上雅司訳、中央公論美術出版、1991年、原著1978年)を読んだ。この高名な美術史家の著作はほとんど読んだことがないのだけど、おそらく彼自身は「進歩が抗し難い力を持つと考えることに対して慎重であるよう忠告した人」であり、単なる学習のための読書という以上に思想として共感できる気がする(よく知られている『美術の物語(美術の歩み)』も読んではいないけれど、図書館で前書きに目を通しただけで信頼できる人だと思った)。
この本で主に彫刻と絵画を通して論じられている芸術と進歩理念の関係は、建築の分野で考えても興味深い変奏を見せるかもしれない。というか僕が知らないだけで、すでに書かれていてもごく当然のようにさえ思われる。個人作家の作品歴という枠組みで見れば、『建築家・坂本一成の世界』(LIXIL出版、2016年)で各作品の並べ方について考えていたこと(時系列という一般的な形式を採用しつつも、その形式がまとう線的な進歩史観をいかに相対化するか)にも響いてくる(2016年10月17日)。既成事実化された「歴史」に対する批判意識は、近年の岡﨑乾二郎さんの態度にも通じるかもしれない。以下、抜粋メモ。

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法政大学で開かれたシンポジウム「建築デザインにおける社会性を巡って」を聴いた。日本建築学会の建築論・建築意匠小委員会による企画で、パネリストは坂本一成・妹島和世・ヨコミゾマコト・青井哲人の4氏。告知の段階でテーマとメンバーの並びを見たときから多少予想はできたけれど、せっかくの豪華ラインナップも、シンポジウムのデザインに確たるヴィジョンがなくてもったいない。社会性というテーマを掲げているのに、企画としてそのテーマに対する切実さや真摯さや執念が感じられず、むしろイベント自体に社会性が欠けているという印象だった。
たとえば坂本先生の発表では「現代の行きすぎた社会性が建築を施設化させる」という批判が根幹にあった。そしてその後に発表されたヨコミゾさんの作品は、坂本先生にとっておそらく「施設化した建築」の範疇にあるものだろう(ご本人に確認したわけではない)。しかし両者のそのような対立性・対比性はこのイベントではすくい取られず、明るみに出ない。登壇者それぞれが言う「社会性」という言葉は全体で明確な像を結ばないまま無為なずれを拡散させ、弛緩した時間が過ぎていく。
僕がこう書くからといってヨコミゾさんの作品が良くないということではない。ヨコミゾさんの作品にはヨコミゾさんの作品なりのリアリティや必然性があり、坂本先生の作品には坂本先生の作品なりのリアリティや必然性があるはずだ(妹島さんも同様)。だからそのお二人(お三方)それぞれの活動に十分な意義を見て登壇を依頼したというのなら、その場を設定した人たちは当日の議論を想定してそれ相応の準備や仕掛けをしてしかるべきだし(少なくとも坂本先生と妹島さんは、放っておいても勝手に議論を盛り上げてくれる「サービス精神旺盛な人」でないことは明らかだと思う)、それぞれの建築家の活動のあり方にもっと興味を示し、それらの差異や固有性を自ずと探求せずにはいられないというのが本当だろう(そこから現代における建築と社会の関係も浮かび上がってくるかもしれない)。にもかかわらず有料でこれだけの聴衆を集めておいて、そういった探求の意志をうかがわせないというのは一体どういうわけだろうか。既成領域としての「大学」や「学会」というものに対する不信感をただただ募らせる。
入場料代わりの資料代1500円で配布されたプリントの束(A4用紙14枚)は、別の集まりで別の三者が発表に際して使用したパワポデータのプリントアウトであり、今日のシンポジウムの資料になるようなものではない。またもしそれを読み込みたいと思っても、プレゼン用のパワポのコピーだけで三つの発表の内容を正しく把握することは不可能だし(むしろ誤解を誘発する)、もとより縮小して出力されているので(A4用紙1枚にパワポ6ページ分)、字が小さくてところどころ読めないようにさえなっている。そんなことを普通にしてしまえる辺りも、学問に向かう根本的な態度に疑念を抱かせる。帰宅後、今日のシンポジウムについて「刺激的」「白熱」「意義深い」といった言葉がSNSで発せられるのを見て、余計にやるせない気分になった。

テレビで放送していた上田慎一郎『カメラを止めるな!』(2017)を観た。90年代の矢口史靖やSABUを思わせるポップな作風は決して嫌いではないものの、アイデアを映画として成り立たせる完成度にいくぶん物足りなさを感じた。たまたまネットや深夜テレビで目にしたならけっこう感心してしまいそうだけど、ここまでヒットして話題になるのはどうかという気がする。知っている役者が一人もいない映画でもこれだけのことができるという希望のような気持ちと裏腹に。


今日の『東京新聞』夕刊で、古谷利裕さんが国立西洋美術館「ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代」展(〜5/19)のことを評している。古谷さんはすこし前にもブログでコーリン・ロウ&ロバート・スラツキーの「透明性──虚と実」(初出1963年)を参照しつつ、この展覧会について書かれていた。

これも古谷さんの画家としての知識と実感に根ざした文で、とても新鮮に感じられる(僕がル・コルビュジエの絵画をめぐる言説に無知だというせいもあるかもしれないが)。これまでル・コルビュジエの絵画には特に関心がなかったのだけど、コーリン・ロウを読み返して展覧会へ行ってみたくなった。

ここ最近、家で観た映画。マーク・L・レスター『処刑教室』(1982)、ティム・バートン『エド・ウッド』(1994)、サトウトシキ『団地の奥さん、同窓会に行く』(2004)、アナ・クラヴェル『クリープショー3』(2006)、ティム・バートン『ビッグ・アイズ』(2014)。いわゆるB級という感じの映画が多かったけど、『団地の奥さん、同窓会に行く』には何かしらぐっとくるものがあった。

プリズミックギャラリー「ワイルド・エコロジー:能作文徳展」を観た(〜2/22)。能作さんの建築の実作()と理論的な側面()と太陽熱で料理したりする活動(それを展覧会で展示したりする行為)とがプロフェッショナルなレベルでどのような必然的関係にあるのか、自分のなかでまだはっきりとした像を結んでいかない。

先週金曜、朝から微妙に咳とノドの痛みがあり、夕方から次第に熱っぽくなって、夜には普通に歩くのもきつくなった。土曜は一日中部屋で寝ていて、おそらく15年か20年ぶりくらいに自宅で体温を測ったところ、39.5度。しかし横になってさえいればそれほどつらくはないし、頭が朦朧としているぶん時間が経つのも早い。日曜にはだいぶ良くなり、さらにほぼ微熱にまで快復した月曜、今度は小学校の給食の時間以来ではないかというくらいでマスクを着用して近所の病院へ行ってみると、やはりインフルエンザ(A型)に感染していると診断された。発熱後48時間以上経過しているので、もう専用の薬は効かないと言われたものの、すでに自分でも薬を服用する必要は感じない。しかし自分が誰かの感染源になってしまわないように、医者の忠告どおり、昨日まで外出を控えて部屋に籠もっていた。自分の体がふだんとは違う挙動を示したり、一日中部屋で寝ていたり、人から心配してもらったり、その心配が快復しつつある自分の病状と比べて過大であることをこそばゆく感じたりする、この非日常の病気の感じが懐かしかった。

柴崎友香『公園へ行かないか? 火曜日に』(新潮社、2018年)を読んだ。柴崎さん自身のアメリカでの3ヶ月間の滞在記。というと語弊があるのかもしれなくて、本の帯にはあくまで「連作小説集」と書かれている。しかしやはり一般的にカテゴライズするならエッセイの類いになる内容だろう。なぜ小説集とされているのか、その真意は分からないけれど、エッセイと表記すると、いかにも事実と相違ないもの、あるいは私的なもの、気軽な雑記と思い込まれてしまう窮屈さはあるかもしれない。ただ、この作品は根本的な意味でのessai(試み)の特質をよく備えているようにも思われる。ナショナリティや歴史や時代や文化や世界情勢といった超越的・観念的に認識されているものと、現実の人や言葉や風景や食べ物などの経験とを丁寧にすりあわせ、ある世界の断片を自分を媒介にして事実として記述する試み。それは私的でありながら公的であり、主観的でありながら客観的であるような文章だと思う。

性差の問題でも労働の問題でも教育の問題でも、「弱者」における権利がSNSなどで主張されるのを見ていると、「権利」と「均質空間」が、ともに近代という同じ時代に絶対化したものであることに思いを至らせられる。そこでの「権利」は、あの人にあってこの人にないというものでは役に立たないから、それがひとしくあまねく成り立つ、均質的で普遍的な空間像や世界観が前提にされている。たしかに「権利」という概念を持ちださなければ他になにも頼れるものがないという悲惨な状況は世の中に多々あるに違いないけれども、そういった具体的な状況を抜きにして抽象概念としての「権利」の存在が自律的で自明のものとして語られるとき、むしろそれぞれの場所の多様性や固有性を無視して世界を独善的に秩序づける「均質空間」という空間図式の負の側面を感じさせることがしばしばある。