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写真を撮りながら近所を散歩。上のはいつもつい写真を撮ってしまう場所(やむなきことだろう)。よく晴れていて、画面左奥の富士山が見えた。ここから富士山が見えることを初めて知った。
まえの日記で引用した島崎藤村の「写生」(『新片町より』左久良書房、1909年)に、以下の文があった。これも分かるような気がする。

思ふに、こちらに生気のある時でなければ、真に『生』を写すことは出来ない。

絵画や文筆などの創作とちがい、ただシャッターボタンを押すだけで撮れてしまう写真でも、やはりくたびれて集中が切れているときは力のない写真になってしまいがちだ。それを考えてみると、ふと思い当たることがある。まえに「午前の光には魅力がある」ということを書いたけど(5月2日)、晴れた日の午前中において自分なりに手応えのある写真が撮れやすいのは、単に透明な光に照らされた被写体の状態だけの問題ではなく、その同じ午前の光によってもたらされる自分の「生気」の問題でもあるのではないだろうか、と。
以下、写真7点。歩いたのは4月30日とだいたい同じルート。すべて撮影順。

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写真を撮りながら近所を散歩。

驚異の念に乏しいときの写生は、死んだ記録のやうなものが出来上る。正しいかも知れないが無意味だ。

  • 島崎藤村「写生」『新片町より』左久良書房、1909年

上記、大塚幸男『花咲く桃李の蔭に──モラリスト・島崎藤村』(潮出版社、1972年、p.32)からの孫引き。藤村における写生はもちろん写真でも絵画でもなく、文章によるものだけど、言っていることは分かるような気がする。
なんとなく検索してみたところ、『新片町より』は著作権の保護期間満了とのことで、1909年(明治42)の初版本が国立国会図書館デジタルコレクションで全ページ公開されていた。

3年半ほど前に読んだジョン・カサヴェテス論(2018年1月28日)が「大幅に増補・改稿」され、電子書籍の一編として新たにリリースされたらしい。振り切れている。

この発売は、私自身がこのようにまとめておかないと据わりの悪い気分がするというだけのことなのであって、広く流通して多くの読者に読まれたいなどという気持ちは微塵も持っていない、ということだ。

朝倉加葉子『羊とオオカミの恋と殺人』(2019)をインターネットの無料動画GYAO!で観た。先日読んだ(2021年5月26日)フィッシュマンズについてのエッセイを書いた映画監督の作品。この手の最近の邦画として質が低いわけではないと思うし、監督のセンスや実力も感じさせる。ただ、漫画原作のストーリーは設定が過激なだけで深みがなく、映画としてはそれ以上どうにもならないのではないかという印象を受ける。だから丁寧に全体の完成度を上げるような作り方ではなく、なんらかの方向に振り切るような作り方のほうがよかったような気もしたけれど、それがこういう映画の観客や製作者に望まれていることなのかどうかは分からない。ふだんはこういう映画を観ても特になんの疑問も抱かないものの、あのフィッシュマンズについての力のこもった文章を書いた人が手がけているとなると、いろいろ考えてしまう。佐藤伸治ならなんと言うだろうか。

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東京都美術館「イサム・ノグチ 発見の道」展(〜8/29)、最後の週末に観ることができた。そして移動し、パナソニック汐留美術館「サーリネンとフィンランドの美しい建築」展、同館ルオー・ギャラリー「塔のある風景」(~9/20)。

物を与える場合には、よろこんで、そしてほほえみながら与えよ。(ジョゼフ・ジューベール)

このまえ(6月6日)引用した大塚幸男『フランスのモラリストたち』(白水社、1967年)に載っていた箴言のひとつ。ジューベール(1754-1824)という人は、日本では本書の出版当時も今もあまり知られていないようだけど、著者は思い入れがあるらしく、モンテーニュ、ラ・ロシュフーコ、パスカル、ヴォヴナルグと並び、本書の1章がその評伝に充てられている(厳密にいうとモンテーニュは倍の2章分)。たしかに上の箴言などは、そこからおよそ200年後の今でも深く頷ける。抽象化され凝縮された言葉に、時代や文化の隔たりを超えて共感する。
やはりモラリストの思想や表現には興味を惹かれるのだけど、モラリストを概説した日本語の書籍は、今回のこれと、以前読んだ(2012年12月31日)竹田篤司『モラリスト』(中公新書、1978年)くらいしか見当たらない。モンテーニュやパスカルといった個々の作家がこの先も読み続けられていくのは間違いないとしても、「モラリスト」という抽象的な枠組みはもう流行らないのだろうか。上記の2冊はどちらも、モラリストは「永遠の人間(永遠に変わらない人間)のあり方」(大塚)を考え、「人間は本質的にみなおなじであるという、人間の普遍性に対する確信」(竹田)を持っていたということを指摘している。たしかに大きく言ってモラリストの文章を読む人は、そこに自分と異質の人間ではなく、自分と同質(そして格上)の人間を求めている気がする。一方、人間の多様性を重く見ることが政治的な正しさにもなっている現代では、芸術作品は自分と異質のものに出会う機会だと考えるほうが、少なくとも玄人や専門家のあいだではスタンダードになっているように見える。そこではあらかじめ共感を求めて作品に接するような態度に疑いの目が向けられ、自分と異質のものを受け入れようとしないのは傲慢だと批判されたりもする。事実、大衆的・商業主義的なレベルでは、人々の既視感にもとづき、安易な共感を狙ってつくられる作品が溢れているわけだから、こうした批判が出てくるのは当然のようにも思われる。
もちろん人間は異質か同質かといった話はあくまで観念上の対比であり、実際には完全なる異質も完全なる同質もありえない。人間の同質性を認識するにはそれと別の部分で人間の異質性を認識していなければならないし、その逆もまた然りである。だからある作品のなかで異質な他者に出会い、感動することがあったとしても、その感動は同時に人間の同質性によってもたらされているのであり、そのとき人間の異質性を重視するか同質性を重視するかは、単に主観やイデオロギーの問題なのかもしれない。

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BOOK AND SONSのギャラリースペースで、安藤瑠美写真展「TOKYO NUDE」を観た(〜8/22)。


ネットで目にして興味を持った写真。都市の表面を洗い流したような、不思議なたたずまいの建物群。しかし実際に大きくプリントして額装されたものを観る意味は今一実感できなかった。紙の写真集にもなっているようだけど、展覧会や写真集をとおして作品を社会的に成り立たせることの重要性はさておき、写真としてはレタッチが施されたデジタルの環境でそのまま観たほうが、その作品性を十分に体験しやすいのではないだろうか。そのときのモニターのサイズも体験に大きく関わってくると思う。
建物の表面を修整するだけでなく、切り抜いて貼り合わせたりされているのも、僕にはあまりぴんとこなかった。おそらくその作業で意図されているのは視覚的・造形的なレベルでの面白さだと思うのだけど、建築の二次元的なコラージュとしては、その建築の文化的・記号的なレベルまで含めて構成された作品が昔からあるだろうから(そもそも建築の設計自体がコラージュみたいなものだ)、視覚的・造形的なだけだといくぶん弱い気がしてしまう。むしろ現実の物体の組み立てやパースペクティヴや重力を崩すことで、写真表現が扱いを得意としてきたはずの空間のリアリティから縁が切れてしまいかねないのではないか。僕自身が、現実の都市において計画的なものと自然発生的なもの(人工的なものと自然的なもの、無時間的なものと時間的なもの、必然的なものと偶然的なもの)が混じり合った結果あるいは過程としての空間のかたちに興味があるから、余計にそういうことを思うのかもしれない。
今後このシリーズが展開されていくのかどうか知らないけれど、建物の表面や表層は専門的な建築論としても昔から様々に論じられてきた厚みのあるテーマだろうし、それをデジタルの技術によって操作する手法には可能性があると思う。こうした表現は時代の必然とさえ思えるし、また新しい展開を期待したい。

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乗泉寺八王子別院(設計=谷口吉郎、1971年竣工)を訪問。1月に渋谷の乗泉寺(設計=谷口吉郎、1965年竣工)で模型を観たもので(1月14日)、4月に青梅市吉川英治記念館(設計=谷口吉郎、1976年竣工)に行ったときには時間がなくて寄れなかった(4月10日)。内と外の明暗の差が大きいため、写真に写すのが難しい。実際は室内もずっと明るい。
建物のかたちは谷口らしい穏やかな切妻の平屋だけど、仏教寺院の構成としてはずいぶんラディカルだと思う。堂内に本尊がなく、ガラス張りの妻面の先にある宝塔を礼拝の対象としている。機能を抽象し分節した近代的で明朗な空間。ここはあくまで霊園を主とした別院なので、本尊を外部化させることで、礼拝に限らない建物のいくらかカジュアルな使い勝手も考慮しているのかもしれない。
お堂を見下ろす位置にある円形の墓地も、日本の墓地らしくなく明朗で清新だった(当時の空撮では正円だけど、いまGoogleマップで見ると楕円)。空が近く感じられる。宝塔のかたちも含めた計画全体の強い幾何学性は、周囲の自然と調和・拮抗させるためのものだろうか。以下、写真2点。

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過ちを犯した人たちをたしなめるとき、われわれには、善意より自惚れのほうが強く働く。長々とお説教はするものの、相手の間違いを正そうというより、自分は別物、と言ってきかせるのだ。

  • ラ・ロシュフコー『人生の知恵──省察と箴言』吉川浩訳、角川文庫、1968年、p.21


7月14日にオリンピックの開会式の概要が発表されて以降、小山田圭吾の「いじめ問題」が世間で騒がれている。事実を十分に把握していない時事的なトピックについてはなるべく語らないようにしているのだけど、僕自身、長いあいだ小山田氏に対して思い違いをしていたことに気づかされたり、常日頃SNSや現代のメディア環境について抱いていた問題意識と重なることもあって、断続的にツイッターで言葉を発することになった(下記リンク先、一連のツイートがスレッドでひとつながりになっている)。


断片的な言葉はあらためてこのブログでまとめようという思いもあったのだけど、今後もまだなにかツイートするかもしれないし、ツイッターの言葉を異なる環境に移すのはやはりきちんと考えだすと簡単ではないので、とりあえずこのままにしておくことにした。