書物は基本的に大量生産の複製品だから(芸術作品よりも)安価で購入しやすい。しかしそれを自らの私的空間で所有すると、その物が内包する人間の個性や文化や歴史が日常にそこはかとなく感じられる(だから情報として必要であっても、嫌な本は所有したくない)。それは「飽きた」状態の芸術作品の在り方とほとんど同じかもしれない。


谷中のHAGISOで、伊部年彦展を観た(〜7/23)。2分割された会場の手前と奥とで、だいぶ作品の雰囲気が異なる。手前は西洋絵画のベースが感じられ、奥(上の写真)は民藝っぽさがある。作家は静岡出身で、芹沢銈介美術館も身近だったらしい。個人が内包する様々な文化。

作品を「所有すること」が展示のテーマの一つにされているけれど、それは本展の作品がもつ「民藝っぽさ」と無縁ではないかもしれない。『建築と日常』No.5で「あなたにとって飽きない建築とはどういうものですか?」というアンケートをしたとき気づいたのは、そもそも建築は(嫌で嫌で仕方ないということはあっても)飽きないということだった。例えばこのHAGISOの建物も、「飽きた」という思いを人に与えることは決してないだろう。しかし芸術作品を所有することは「飽きる」ことと隣り合わせだと思う。コレクターは作品を飽きないからこそ所有するのか、あるいは一つだと飽きるからいくつも所有するのか。作品を「飽きる」のは必ずしも悪いことではないかもしれないけど、民藝的な作品はやはり飽きにくそうな気がする。


アルカディア市ヶ谷で開かれた「大江新先生+石井翔大さんの出版を祝う会」に出席。大江新さんの『東京・再開発ガイド──街とつながるグラウンドレベルのデザイン』(学芸出版社)と、石井翔大さんの『恣意と必然の建築──大江宏の作品と思想』(鹿島出版会)の合同出版パーティー。


関係者の方からいただいた新刊書。かなり難解そうなので、とりあえず紹介のみ。ディオゴ・セイシャス・ロペス『メランコリーと建築──アルド・ロッシ』(服部さおり・佐伯達也 訳、片桐悠自 監修、フリックスタジオ、2023年、原著2015年)。

どういう事情か知らないけれど、本書とは別のところで、監修者のテキストが公開されている。

八束はじめさんによるオンラインレクチャー「汎計画学──「計画」の世界史」(世界建築史15講連続セミナー)を聴いた。八束さんがメタボリズムの再評価などを通して「現代に大きなヴィジョンを描くこと」(計画の意志)の必要性を認識していることは知っていたけど、そういう都市スケールのデザインにおいては、目の前の雑多で断片的な現実を、あるレベルで抽象化・構造化し、「全体」として捉えなければならない。だからそれと同型の思考を前提にしていると思われる「世界建築史」という概念自体を八束さんが批判するのはすこし意外だった。いわく「「世界建築史」とは自らに異議を唱える形でしか成立し得ない」。
3年ほど前に読んだオルテガの『大衆の反逆』(1930年)を思い出す。抽象化・構造化をめぐるアンビヴァレント。「現代の歴史的事実を構成する数え切れないほどの事柄を、あまりに簡単な定式に纏めるのは、間違いなくうまくいった場合ですら一つの誇張に堕するだろう。だから私は、好むと好まざるとにかかわらず、思索するとは誇張することなのだということを、ここで想起する必要があった。誇張を望まない人は黙るしかない。いやそれどころか、おのれの知性を麻痺させ、おのれが愚かになる様子に直面せざるを得ない。」(2020年8月23日

芸術や文化に触れたいとき、あるいは非日常感を味わいたいときに足を向けたくなる美術館。
初めて美術館を訪れる人は「どんな格好をすればいいかわからない」「美術館にドレスコードはあるの?」など、コーディネートに不安を感じることが多いようです。

そこで今回は、美術館に行くときの服装マナーや、服装選びのポイント、最適なコーディネート例を紹介します。

美術館に行くときの服装マナーなんてどうでもいい、と上の記事がSNSで批判されている。今日、一般的な美術館にドレスコードがないことは当然で良いことだと思われているけれど、聖堂でも邸宅でも床の間でも、かつて美術品が置かれていた場所では、その環境に身を置くのにふさわしい服装の文化的コードがあったはずだ。現代にそのコードがなくなったのは自由なのか野蛮なのか。

 美術館はあまり好きではない。見事なものはたくさんあるが、居心地のよい美術館というものはまったくない。分類、保存、公益といった理念は正しいし明快だが、愉楽とはあまり関係がない。
[…]
 逸楽も道理も蔑ろにするような文明だけが、この不調和の館を建造することができたのだろう。死んだヴィジョンの数々がこうして隣り合わせに並んでいる様子からは、何かしら狂気じみたものが生じている。それらは互いに嫉妬しあい、みずからを生きた存在にしてくれる眼差しを奪いあっている。それらは四方八方から、私の不可分の注意を惹こうと呼びかけてくる。それらは、生の際立つ要所を狂ったように逆上させ、見る者の身体器官の全体をそれが惹きつけられるもののほうへと引きずり込もうとする……。

  • ポール・ヴァレリー「美術館の問題」1923年、今井勉訳(『ヴァレリー集成Ⅴ 〈芸術〉の肖像』筑摩書房、2012年)

昨日はその後、新宿シネマカリテで、ホン・サンス『小説家の映画』(2022)を観た。書けなくなった小説家がふとした偶然で、長年思い描いていた映画制作に取り組むことになる。この作品が、たとえば『画家の映画』や『音楽家の映画』ではなく『小説家の映画』であるのはなぜか。テキストでは捉えられないものの表現としての映画。そこで示されるパーソナルな映画観は、映画の専門領域内ではなく、その外部、映画のアマチュア(小説家)に託してこそ語られうるものだったのかもしれない。今回はホン・サンスの作品によく見られる時空間の並列や反復などの構成的操作はないものの、劇中で理想的に語られる小説家の映画と、今まさに観客が観ているホン・サンスの映画とが重なり合い響き合う。
最近ホン・サンスについての評論で、「昔はよくエリック・ロメールに似ていると言われたけど実際には特に似ていない」みたいな書き方をする文章が目につく気がするのだけど、僕はやはり似ていると思う。しかし本作で連想されたのはロメールの抽象性よりもロッセリーニやカサヴェテスの具体性だった。



《粟津邸》(設計=原広司+アトリエφ、1972年竣工)の見学会に参加した。

細長い長方形平面で、敷地の傾斜に沿って上部から下部に降りていく動線。外部に対して閉鎖的であり、平面中央を貫く中廊下がトップライトの光で満たされる。抽象化された街路的空間。そこから個々の室に接続し、あたかも住宅内部において外部/内部の関係が反復されるような入れ子状の構成。建築雑誌の写真で見ると幾何学性が支配的でそっけないように思えるけど、訪れてみると身体的な豊かさがある。
外部に閉ざして内部に完結的な世界をつくるのは当時の住宅建築の流行と言える。ただ、行ってみて初めて意識したことで、《粟津邸》の抽象性/身体性、幾何学的形式性/集落的伝統性、水平性/垂直性などの関係のあり方、トップライトの白い街路的空間が媒介する入れ子状の構成は、《水無瀬の町家》(設計=坂本一成、1970年竣工)とよく似ているように感じられた*1。それが実際どこまで似ているかはともかく(考えてみれば篠原一男の「亀裂の空間」とも似ているかもしれない)、そう感じられたのは僕にとって新鮮なことだった。原さんも坂本さんもそれぞれユニークで難解な理論で知られるけれど、互いの理論に直接の接点や影響関係はほとんどないだろう。それが実際の建築体験において似たものを感じさせるのはどういうわけか。

*1:あえて坂本さんの建築と比べてみれば、《水無瀬の町家》(1970)と似ている面がある一方、《祖師谷の家》(1981)と似ている面もある。建築のムードみたいなところ。《祖師谷の家》は、どちらかと言うと坂本さんのほうが原さん的な建築に寄った時期ということかもしれない。


もう7〜8年使っているカメラ&レンズの接着剤が剝がれてきた。まだ使えそうだけど、ニコンでも他のメーカーでも一眼レフは縮小傾向のようなので(特に安価なモデル)、次はどうしたものか。


写真を撮りながら近所を散歩。この写真はノートリミングで、すこし左に傾いている。基本的になるべく垂直は合わせるようにしているのだけど(手持ちで撮影し、傾いている場合は撮影後に回転)、ある種の写真で垂直をとろうとすると、むしろ空間が消えてしまうような感じがする(通常は垂直に合わせると空間が定まる感じがする)。



写真を撮りながら近所を散歩。カメラの広告なんかでよく、「この瞬間を永遠に」みたいなことが言われるけど、僕の場合、写真を撮っていて、「これがここにある」「ここがこうある」という空間への意識はあっても、「今この時に」という時間への意識はあまりない。基本的に動かないものを撮っているせいもあるだろうか。

あったものは、常にあったものである
今あるものも、常にあったものである
いつかあるであろうものも、常にあったものである

ルイス・カーンの言葉。香山先生によれば、この言葉は旧約聖書のコヘレトの言葉に拠っているらしい。

知り合いに薦められてDVDを借り、パヴェウ・パヴリコフスキ『イーダ』(2013)を観た。シンプルなつくりで見応えがあると思う一方、もう1本くらい観てみないと信頼できる監督かどうか分からないという気もする。