インターネットで、クリント・イーストウッド『ジャージー・ボーイズ』(2014)と、黒沢清『クリーピー 偽りの隣人』(2016)を観た。その高度な技術や世評の高さはじゅうぶん理解するものの、個人的に「好き」とは言いづらい両監督だけど、この2作の印象は好対照だった。
『クリーピー』は傑出した部分を多く持ち、とくに埼玉県立大学(設計=山本理顕、1999年竣工)のガラスで重層化した空間の使い方とか、なにげない民家の実在感とかの建築/空間表現がすばらしく、鈴木了二さん風に「建築映画」と言って分析してみたくなるほどだった。しかし作品の総体としては、その暴力性において、「こんな映画は世の中にないほうがいい」と思ってしまうくらいに嫌悪感をかき立てられた。黒沢清の映画では、たとえ狂人を描いていても「本当に狂っているのはどっちだ?」みたいな疑問を投げかけてくる哲学的な深みがある気がしていたけれど(それほど厳密な認識はないので、僕の思い込みかもしれない)、この作品の世界像は平板であり、小説を原作に持つせいもあってか、ストーリーもところどころ描き切れていない感じがした(たとえば主人公夫妻の人間関係など)。
一方、『ジャージー・ボーイズ』は事実にもとづくミュージカルの映画化ということらしく、物語はごくごくベタだと思うのだけど、その音楽をベースにした典型的な映画の現れが、いつものイーストウッドの作り込まれた世界像の微妙な気味の悪さを霧散させているようで、素直に作品を楽しめた。初対面でお互いを探り合っている若者同士が偶発的にセッションを始め、とたんに息が合って演奏が盛り上がり場の空気を変えていくというようなシーンはあまりにもベタだけど音楽映画の醍醐味という気がするし、それをリアリティをもって成り立たせているのは、やはりイーストウッドの映画の技術なのだろう。
この2本の映画のあり方の違いは、それぞれの監督がたまたま選んだ原作の違いということでもあるかもしれないけど(「建築映画」は「それだけ」では成り立たないが「音楽映画」は「それだけ」で成り立つ、ということもあるだろうか)、ちょうど最近読んだ本で印象深かった福田恆存の発言が、このふたつの映画作品の違い、あるいはふたりの映画監督の違いを説明するような気がした。おそらくこの言葉を、黒沢清は屁とも思わず、イーストウッドはそれなりに共感するのではないだろうか。

すべての作家は、人間のよさ、それから生きていることのよさというものが書けなければ仕方がない(福田恆存)

  • 小林秀雄・中村光夫・福田恆存「文学と人生」『新潮』1963年8月号(『小林秀雄対話集』講談社文芸文庫、2005年、p.266)