NHKの「ファミリーヒストリー」という70分あまりの番組で、「長谷川博己〜1300年前の伝説 老舗温泉旅館の誇り〜」を観た。俳優・長谷川博己氏(1977-)の先祖がたどられるなか、父親である長谷川堯さん(1937-2019)も大きく取り上げられた。知られざる生い立ちと若い頃の足跡、家族とのプライベートな側面。他人事ながら妙に心を動かされ、長谷川堯さんのことを知っていて番組を観ていない人がいれば、おせっかいで鑑賞を勧めたいような気持ちになった。
博己氏については、10年ほど前に『映画空間400選』(INAX出版、2011年)の原稿依頼で長谷川堯さんに会いに行ったとき(2010年9月4日)、「息子が役者をしている」、「蜷川さんの舞台なんかに出ている」、「自分で映画評を書いたりもしている」、みたいな話を聞いたことがあった。息子さんを誇らしく思っているような印象を受けたのを覚えている。*1
長谷川堯さんが書いたものは学生の頃から読んでいたし、その後、仕事で若干のお付き合いもあったので、その個人的な経験が今夜の番組の印象を深くしたのは間違いない。加えて博己氏と僕が同世代であることも、長谷川父子への感情移入の一因になった気がする。ふだんはスター俳優の「売れない頃のエピソード」や「役者の道へ進むときの家族の不安」を聞いてもなんとも思わないけれど、今回はそれがいくぶん真に迫るものに感じられた。


下記、2年ほど前のツイートが、たぶん今夜の番組の影響で久しぶりにリツイートされた。博己氏の知名度を利用した打算的なツイート、しかし事が事だけに長谷川さんもきっと見過ごしてくれるだろう、と思ってツイートしたのだった。


豊多摩監獄の正門の件(2018年12月9日)がその後どうなったのか調べてみると、小学校の移設のため、ちょうどこの12月に中野区が刑務所の跡地を国から買い取ったらしい。「刑務所の跡地を買い取った中野区は、門を保存したい意向ですが、どのように保存するのかはこれから議論されるということです」。

*1:ちなみに『映画空間400選』で長谷川さんに紹介文を書いていただいた映画は、溝口健二『浪華悲歌』(1936)、キャロル・リード『第三の男』(1949)、ヴィットリオ・デ・シーカ『終着駅』(1953)、蔵原惟繕『俺は待ってるぜ』(1957)、クロード・シャブロル『いとこ同志』(1958)、ジョン・ヒューストン『許されざる者』(1960)の6本。『浪華悲歌』は村野藤吾の建築が出てくるので僕からお願いした気がするけど、他は長谷川さんのチョイスだったと思う。番組では長谷川さんが高校生で下宿していた頃、仕送りでもらった授業料を使い込んで映画を観に行っていたことが親戚によって明かされていた。ちょうど当時観ていたのがこの辺りの映画だったのかもしれない。

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ちなみに各種のおまけのうち、特に山田脩二さんの写真集『焼き物の街・常滑──山田脩二の写真・軌跡 1963-64年シリーズより』(INAXライブミュージアム、2008年)は、Amazonなどでの流通もなく価値が高いものだと思います。2013年の別冊『多木浩二と建築』刊行記念イベント()の際にご本人から複数冊を託され、その後、折にふれ然るべき人に差し上げてきましたが、この機会に残りの分を放出することにしました。その他、大部分は年末の大掃除で出た映画のパンフレットです。

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新年の散歩。ひさしぶりにこの辺りを歩いたせいか、写真を撮っていてわりと手応えがあった。去年の夏に引っ越してきてから、よく近所を散歩しながら写真を撮っているけれど、だんだんと似たり寄ったりの写真になってきているような気がしていた。自分の固定化した意識(と未熟な技術)がそうさせるのだと思う。
近所と言ってもそれなりに広い範囲で、そこには写真に写る無数のものがあるわけだし、引いたり寄ったり、フレーミングの仕方も無数にある。季節や時刻や天候や人々の営みなどによっても、空間はその都度多様な現れ方をする。だから理想としては、いつまで経っても撮り尽くすことなく、日々の散歩のなかで延々と撮り続けていけるように写真を撮れるようになれたら、と思う。以下、写真12点。上の2点も含めてすべて撮影順。

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今年観た(写真を撮った)主な建築。

新作を観ない1年だった。

『住宅建築』12月号(10月17日)に寄稿したテキスト「若気のいたりで撮られた写真」を、『住宅建築』編集部の了承も得て、noteで再公開した。写真集『建築のことばを探す 多木浩二の建築写真』(編=飯沼珠実、寄稿=今福龍太、建築の建築、2020年)の書評として書いたもの。
note.com
もともと「この本については何も語らないつもりだった」(7月26日)はずが、いざ書いてみるとやはり多くの人に読んでほしくなる。というか書評を書くだけでは飽き足りず、ネット配信()でしゃべるまでになった(そちらでは意図して本書自体にはあまり触れていないけれども)。
この書評が『住宅建築』に載った後、ある近しい人から、「新刊の書評はポジティブにその本の可能性を引き出すべきであって、これは良い書評とは言えない」というようなことを言われた。「批判」を批判する古谷利裕さんの言葉(7月12日)を思い出す。ただ、その人が指摘してくれたことの意味も分からないではないけれど、可能性という言葉を使うなら、僕としてはこの書評では、今回の写真集の批判を通してむしろ多木浩二の建築写真の可能性を開くようなことをしたつもりでいる。批判とは、ある物事の誤りや欠点や限界を指摘することで、別の可能性を開く行為ではないだろうか。多木さんの写真をことさら持ち上げたいわけではないのだけど、今回の写真集の存在によって、その写真やそこに写る建築、多木浩二本人、さらにはそれらをめぐる生きられた歴史が、いいかげんなレッテルで片付けられてしまうのは忍びない。そういう思いが根本にあった。
実際、僕がこの書評でした批判はまったく独創的なものではなく、写真集としてパッケージングされ完結したものに対してそれと符合しない外部の事実を示し、「閉ざされているところ、隠蔽があるところ、一部に限定がなされるようなところ」(2018年7月17日)の風通しを良くしたということだと思っている。

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このまえ(11月22日)「日曜美術館」で観て興味を惹かれた宮崎学の写真集『死』(平凡社、1994年)。動物の死骸が他の生き物に食べられ、風雨にさらされ朽ちていく様子を定点観測で撮影している。


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こちらは、宮崎学・小原真史『森の探偵──無人カメラがとらえた日本の自然』(亜紀書房、2017年)。写真の方法やその経験・思考をめぐる広範なインタヴューが豊富な写真(カラー多数)とともに綿密にまとめられた本。もしかしたら「日曜美術館」の番組制作でも、この本がある程度下敷きにされているのかもしれない。

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ヤスパースの『哲学入門』(草薙正夫訳、新潮文庫、1954年)を読みかけのままにしていたら(10月23日)、この12月に『新版 哲学入門』(林田新二訳、リベルタス出版)が出版された。草薙訳とは文体がだいぶ異なるようだけど、この林田訳も新訳ということではないらしい。
付録の「哲学を学ぶひとのために」の訳は、『柳宗悦と民藝の哲学』(2018年7月17日)の大沢啓徳さんが新しく手がけられている。とりあえずその部分を読んでみると、書かれている内容についての評価はできないものの、歴史上の哲学者に対して批判であれ歯に衣着せぬ物言いで客観的価値を断言していく様(その行為が人類全体としての哲学のためになると信じて)に、柳宗悦の文と通じるものを感じる。
ヤスパースは日本の建築分野では白井晟一が戦前のドイツ留学中に師事したということ(だけ)で名前が出てくる。建築ではヤスパースと同時代で近い位置にいたハイデッガーのほうがよく取り上げられるけど、前に大沢さんから、ヤスパースを好む人はハイデッガーを好まずハイデッガーを好む人はヤスパースを好まない傾向があると聞いたのが妙に印象に残っている。

Amazonにて、来年5月30日発売予定で、atelier nishikata(小野弘人+西尾玲子)の作品集『Almost, Not』が予約販売されている。

Almost, Not: The Architecture of Atelier Nishikata

Almost, Not: The Architecture of Atelier Nishikata

著者レスリー氏はミースやアドルフ・ロースの研究者。「This book is a hybrid between an architectural monograph and a magic instruction book.」という、面白い切り口の本になるらしい。『建築と日常』No.3-4()で岡﨑乾二郎さんに批評文を書いていただいた《4 episodes》(2014年竣工)も収録される予定。以下、出版社Oro Editions(米国)のサイト。
www.oroeditions.com

今年はどこからもカレンダーをもらえる見込みがないので、オンラインの芹沢銈介美術館ミュージアムショップで、卓上版のカレンダーを注文してみた。
seribi-museum.shop-pro.jp
1971年のカレンダーの復刻だから、祝日は自分でチェックする必要がある。まあ、あまり機能的ではないかもしれない。せっかくなので合わせて風呂敷も、手ごろなものを1枚注文した。
『建築と日常』No.5()では河井寬次郎の建築の仕事について坂本一成さんにインタヴューをしたけれど、じつは坂本さんが民藝運動の作家のなかで最も作品に共感するのは芹沢銈介だと仰っていた。白井晟一の設計である静岡の芹沢銈介美術館にもいずれ行ってみたい。


『NOBODY』2年ちょっと振りの最新号。創刊20年を振り返る特集が組まれている(創刊50号ではなく創刊20年を優先させていることにリアルな何かを感じる)。

過去の総覧には僕や『建築と日常』の名前も載っていた。僕にとって『NOBODY』はほとんどイコール結城さん(『映画空間400選』の共編者)なのだけど、結城さんともずいぶん会っていないし、ついこの前と思っていたあれもこれも、並べてみるともうみんな昔のことになっているのだということを思い知らされた。
以下、2009年の『建築と日常』創刊前夜に『nobody』30号に寄稿したテキスト(誌面PDF)。

以下、これまでにウェブ版に投稿したレビュー4本。

以前、SDレビュー2014の展覧会評で、実物が展示できない建築展というものの難しさについて触れたことがあった()。その後、このブログでも「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」展について書いたなかで建築展のあり方に言及しているけれど(2017年7月24日)、実際の建築展でもうひとつ具体的な問題として挙げられるのは、概して内容が詰め込みすぎになるという点だと思う。訪れた鑑賞者がその場でどういう体験をするのかが度外視され、会場を埋め尽くす情報の量が一方的に優先される。展覧会場で一度に100点の絵画を観ることは可能でも、一度に100点の図面を観て、それらに付随する数千字の解説文を読むことは、一般の人間の能力からして不可能だろう。だからそうした建築展ではいつも過密な情報にくたくたになりながら、しかし出された料理を食べきれずに残してしまうような後ろめたさをもって会場を後にすることになる。
こうした建築展の傾向は、特に過去の建築家を大々的に振り返る企画で顕著になる。そこでは展覧という行為と研究という行為が重ねられていて、もうひとつのアウトプットとして分厚い書籍が同時刊行されたりする。あるいは展覧会という現実の活動が予定されているからこそ、そうした研究や出版が可能になると言ってもよいのかもしれない。それはそれで有意義で貴重な機会に違いなく、それぞれの関係者には晴れの舞台のために力を尽くしてもらえたらよいと思う。ただ、そういう機会を活かすなかで、研究と展覧の性質の違いや書籍と展覧会の性質の違いをしっかりと見定め、よりよい建築展のあり方を考えられないものだろうか。他でもない建築の展覧会で、その空間における人間の体験がないがしろにされているというのは憂うべきことだと思う(ただし、森美術館「建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの」(2018年5月15日)のように、観客に対してアトラクティブであることを目指しても別の問題が発生しうる。また例えば森美術館のような一般の美術館と、研究機関でもある国立近現代建築資料館のような施設とでは、建築展のあり方も自ずと変わってくると思う)。

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自分には撮れなさそうなタイプの写真がiPhoneのカメラアプリで撮れた。本当は右と上を若干トリミングしたいところだけど、iPhoneで撮った写真はなんとなく構図をいじらないようにしている。日付を入れているのはその縛りでもある。
横浜赤レンガ倉庫1号館で「建築家 浦辺鎮太郎の仕事 横浜展──都市デザインへの挑戦」(〜12/13)、BankARTの2会場で「M meets M 村野藤吾展 槇文彦展」(〜12/27)を観た。

アッバス・キアロスタミの『トラベラー』(1974)と『ホームワーク』(1989)をブルーレイで観た。『トラベラー』は長編デビュー作として驚くほど完成度が高い。ただ、キアロスタミ特有のマジックのような詩性はあまり感じられず、ネオレアリズモを思わせるストレートでシビアな作品。この画面にみなぎる緊張感を巧みに解いていったのが後の作品と言えるかもしれない。
『ホームワーク』は一転してレトリカルな作品。ドキュメンタリーの制作主体を透明なものとせず(撮影対象の側からのカメラでやたらと見返される)、対象となる子供たちも、登校時の無垢的な子供、集会時の社会的な子供、そして薄暗い部屋で取り調べのようにカメラの前にさらされた個としての子供と、3つの様態を写す。そのことで映画を一元的な安定したパースペクティブに収束させず、当時のイランの教育や社会の状況をありありと浮かび上がらせるとともに、より普遍的なレベルでの子供というものの存在を照らし出す。
「大人になったらパイロットになりたい」と言う子供に、インタビュアーであるキアロスタミが「なぜ?」と問うと、「サダム(フセイン)を殺すため」という答え。それに対して「君が大人になる前にサダムが死んだら?」とさらに問い、あらためて考え込む子供──。