以前、SDレビュー2014の展覧会評で、実物が展示できない建築展というものの難しさについて触れたことがあった()。その後、このブログでも「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」展について書いたなかで建築展のあり方に言及しているけれど(2017年7月24日)、実際の建築展でもうひとつ具体的な問題として挙げられるのは、概して内容が詰め込みすぎになるという点だと思う。訪れた鑑賞者がその場でどういう体験をするのかが度外視され、会場を埋め尽くす情報の量が一方的に優先される。展覧会場で一度に100点の絵画を観ることは可能でも、一度に100点の図面を観て、それらに付随する数千字の解説文を読むことは、一般の人間の能力からして不可能だろう。だからそうした建築展ではいつも過密な情報にくたくたになりながら、しかし出された料理を食べきれずに残してしまうような後ろめたさをもって会場を後にすることになる。
こうした建築展の傾向は、特に過去の建築家を大々的に振り返る企画で顕著になる。そこでは展覧という行為と研究という行為が重ねられていて、もうひとつのアウトプットとして分厚い書籍が同時刊行されたりする。あるいは展覧会という現実の活動が予定されているからこそ、そうした研究や出版が可能になると言ってもよいのかもしれない。それはそれで有意義で貴重な機会に違いなく、それぞれの関係者には晴れの舞台のために力を尽くしてもらえたらよいと思う。ただ、そういう機会を活かすなかで、研究と展覧の性質の違いや書籍と展覧会の性質の違いをしっかりと見定め、よりよい建築展のあり方を考えられないものだろうか。他でもない建築の展覧会で、その空間における人間の体験がないがしろにされているというのは憂うべきことだと思う(ただし、森美術館「建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの」(2018年5月15日)のように、観客に対してアトラクティブであることを目指しても別の問題が発生しうる。また例えば森美術館のような一般の美術館と、研究機関でもある国立近現代建築資料館のような施設とでは、建築展のあり方も自ずと変わってくると思う)。