柳宗悦と民藝の哲学

大沢啓徳『柳宗悦と民藝の哲学──「美の思想家」の軌跡』(ミネルヴァ書房、2018年)を読んだ。1975年生まれの哲学研究者による本。柳宗悦について書かれた文をそれほどたくさん読んでいるわけではないけれど、特に最近のものほど「柳の文より明らかに薄いのに変に臭う」という印象を受けることがある。しかしこの本は清々しい。著者が学生だったころ柳の文に感動したことが執筆の根本的な動機になっているとはいうものの、その自らの体験を相対化し、柳に盲目的に追従したり無批判に持ち上げたりすることなく、主観と客観を健全に両立させている。こうした態度は、この著者が柳やその周囲の人物に惹かれるということ自体と不可分であるように思われる。著者は柳たちの魅力を以下のように述べている。

 最後に筆者が、柳に、またその民藝の同志たちにもっとも心惹かれるのは、彼らの言動に共通している開放性、いいかえれば「無私」から生まれてくる拡がりのある心である。すでに柳は「この世のすべての素晴らしいことは、利害を越えた所で生い立つ」(16-529)と述べていた。彼らはみな、正しさ・美しさをすべての人と分かち合いたいと願っている。だから自分の損得を超えた次元で活動しているのである。柳がそうであり、また河井も浜田もリーチもそうであった。筆者が思うに、真理とは、このように無限に拡がっていく動きのなかに存するのではないだろうか。間違いなくそれは明るい、健康的な在り方であるだろう。反対に、閉ざされているところ、隠蔽があるところ、一部に限定がなされるようなところには、決して真理は存在しない──そこには真理を歪める何か不穏なもの、暗く不健康な病的なものが蠢いているように感じられるのである。(p.286)

民藝に関する柳の文章は極めて平易なので、必ずしも解説を必要としない。どんな解説を聞くより、そのものを読めば瞬時にわかる(著者自身がそうだったように)。だから単に柳の主張を要約したような文にはまどろっこしさを感じてしまうのだけど、本書では柳の特質を理想主義者であることに見て、その長所と短所の両方を考えながら、活動の軌跡を捉えようとしている。この切り口が興味深かった。考えてみると柳に見られる理想主義は、特にそうと意識せず、『建築と日常』No.5()でも下のように言及している。

次の引用文では、今ならばネット上で無条件にたくさんの「いいね!」が付くだろうエピソードに対し、柳が辛辣な批判をしている。事の是非はともかく、ここに柳の美学や世界観があざやかに見て取れると思う。
「私は一人の熱心な基督教徒を知つてゐる。彼は彼の郷土に對する並々ならぬ愛から、その土地の農民に副業を與へることを發願した。彼が選んだのは手工藝である。彼は奔走して製作させ販賣させた。この仕事が疲弊しがちな農村の經濟を潤ほす慈雨であるのは言ふを俟たない。併し彼が情熱を持つたのは何なのか。副業に手工藝を授けるといふ「こと」であつて、出來上る「もの」ではない。「もの」は何なりと、仕事になりさへすればよかつたのである。その結果はどうか。彼はつまらぬもの、醜いもの、作らすべきでないものを無數に作らせたのである。仕事になつたといふことで成功かも知れぬが、誤つた品物を世に流布せしめたといふことに彼は責任を負はないでよいであらうか。この大きな矛盾は「こと」にのみ心を惹かれて「もの」を省みない誤謬から來たのである。正しい人間、美しい心を作ることに努力する牧師が、不正な醜い品物を販賣せしめる仲立ちとなるとは如何に愚かなことであらう。」(柳宗悦「「もの」と「こと」」『柳宗悦全集著作篇第九巻』筑摩書房 1980)

  • 長島明夫「編集メモ」『建築と日常』No.5、2018年、p.85

上記の柳の文章は、さすがにこれは言い過ぎではないかという気もしつつ、しかしこれだけ徹底した物言いにこそ現代に訴えかけるものがあるのではないかと考えて引用したのだった。実際、柳のこうした理想主義(非現実主義)的な態度はしばしば欠点として批判もされてきたらしい。著者はそれらの批判の妥当性をある程度認めながらも、柳のなしえた功績が、そうした欠点とコインの裏表のような必然的な関係にあることを論じている。

 柳における矛盾を批判することは可能であるだろう。だが、ここまで本書が考察してきたような、柳の一連の思索の歩みと実践とを思うならば、筆者はもはや柳におけるこのような矛盾を批判する気にはなれない。[…]そして民藝はもちろんのこと、間違いなくその一つ一つが後世に残る価値を有する柳の多大な功績と、一生涯変わることのなかった「無私」の情熱とを思うとき、人間としての柳の諸々の欠点──その言説と信仰との間の矛盾であれ、政治的見識の甘さであれ、あるいは兼子に対する冷淡さであれ──は、許容せざるをえないだろう。私たちは、理想主義者・柳宗悦を、その多くの長所と若干の短所とを併せて、評価したいと思うのである。(pp.280-281)

本書の全体に通底する柳宗悦=理想主義者という見解に触れて、個人的にぴんとくるものがあった。もちろん柳と比べるのは不遜だろうけど、良くも悪くも僕にも柳と同型の理想主義がいくらかあって、だからこそ柳の書くものやその思想に大きく共感するのではないか(僕の場合、柳と逆に「若干の長所と多くの短所」という気はするが)。柳が以前よりもすこし身近になったように思われる。
強いて本書に欠けている点を挙げるなら、この本では「美の思想家」について論じつつも、その思想家が実際にどういう物にどういう美を見たのか(あるいは見なかったのか)、その具体的な直観の有り様に触れていないことだろうか(表紙と裏表紙以外には図版が1点もない)。これは著者が哲学分野の人だからということに限らず難しい作業にちがいないと思う。そういう研究がすでにあるのかどうか知らないけれど、例えば今の日本民藝館の館長である深澤直人さんが「洗練とか奇麗というよりも、もっと人間に寄り添ってくる「愛着、愛らしさ」のようなもの」(→PDF)と指摘するような柳の選んだ民藝品の意味が、柳の思想と絡めて具体的に記述されるなら、それはとてもすばらしい。
とはいえ、やはりテキスト面での丁寧な分析と考察は言葉を扱う専門家としての揺るぎない確かさを感じさせるし、註も含めて既往研究にも公正かつきめ細やかな言及がされている(特に鶴見俊輔に対しては著者の思い入れが強いのかもしれない)。今後、柳宗悦のことを考える上での基本文献の一つとされるべき本だと思う。