古谷利裕さんがある時期に「偽日記」でよく書かれていた「批判」批判や「知性」批判は、僕に反省を促す(強いると言ってもいいくらいかもしれない)ものとして心に残り続けている。古谷さんは基本的に作品というものをめぐる「批判」について書いているので、それをあらゆる状況の「批判」に一般化することはできないけれど、昨日の日記の件にしても、やはり僕は「批判」という行為の価値をそれなりに信じているのだろう。以下、「偽日記」からの抜粋。

●それは知的な操作主体が対象に対して優位に立つということで、その時、知的な探求心とはそのまま、自らの位置を上位に置き、相手を跪かせたいという邪悪な欲望と不可分となるだろう。より多く知っている者が、より少なくしか知らない者(知られてしまっている者)を手段とし、支配する。

●作品を経験する時、とりあえずいったんは、その作品のすべてを受け入れなければならないと思う。好きなところも嫌いなところも。すごいと思うところも疑問を感じるところも。受け入れるというのは、それがそのような形になったことのすべてに必然性があるという前提で、それに対するということだ。

●論理による主張は、相手に反発を許さないところがある。こちらは理路整然と語っているのだから、それに文句があるのなら、オレの言っていることの矛盾や誤謬を具体的に指摘してみろ。それが出来ないのならば、オレ様の言っていることを暫定的に真であるとみなせ、と。これは非常に乱暴なことではないか。

●「今までにわたしが知っているもの」によってでは接近し、触れることのできないものを、強引に、既に「知っているもの」によって解釈し、理解しようとすること、つまり、共感(腑に落ちる)によって近づこうとすることは危険なことだ。

●そして、人が、正しさを根拠として誰かを批判する時、そこに必ず「正しさ」とは別の欲望や動機が作動していることに自覚的でなければならない。

●ぼくは、諸悪の根源である特定の「誰か」を指定して、その誰かをやっつけさえすれば、世界が少しでもマシになるというような考え方は、まったく失効していて意味をもたないと思っている。ケンカとは、要するに幼稚なヒロイズムの自己満足以上のものではまったくない。たとえその批判が全面的に正しいとしても、そのような形でなされる批判において実現されるのは、批判を口にしている人やそれに同意する人が「気持ちよくなる(盛り上がる)」という以上のことではないと思う。

●ある批判が、世間の圧倒的な評価に対する違和感として表明される時、それを逆転して溜飲を下げたいという欲望とどこかで通じ合ってしまう。でも、溜飲を下げることなどが目的ではないはず。

●勉強ができる人はしばしば頭の良い人の「手続きの不十分さ(不正確さ)」を批判し、頭の良い人はしばしば勉強の出来る人の「不寛容さ(党派性)」を軽蔑する。実際、半端に勉強ができる人には創造性や柔軟性に欠ける傾向があり、半端に頭の良い人には思い込みやうっかりミスを修正するのが難しいという傾向がある。

●紋切り型を一番避けなくちゃいけない時とは、人の悪口を言う時なのだなということを、紋切り型の批判をみるといつも思う。悪口の時に人はけっこう無防備に弱点をみせるというか、悪口の言い方や内容でだいたいお里が知れてしまうというか。

●何かについて批判的なことを言う時にこそ、その人の弱点や限界、偏り、頭の悪さ、知識の不足、欲望の邪さ、下品さが露呈されるのだということは、ネットをみていると嫌という程感じさせられるわけで、今日の日記がそうではないものになっていることを願っています。

●だが、知らないことはたんに知らないのであり、知らないことを「自分が知っていることの地図」の上に先入観によって勝手に配置して、わかったような気になることは危険だ。ましてや、知らないはずのことについて自分が勝手につくりあげた「オレ様地図」上での配置をもとにして、それを判断したり批判したりすることは避けなければならないだろう。「知らないこと」に関しては、「知らないまま」でいる(判断しない)か「知ろうと努力する」か、どちらかでなければならないだろう。