多木浩二の肩書きを書くべきとき、どうしたらよいかいつも困っていた。ウィキペディアだと「美術評論家・写真評論家・建築批評家」となっているけど()、どれもあまりしっくりこない。ご本人が「雑学者」を自称しているからといって、他人が文脈もなしにそう記すわけにもいかない。

私は自分を哲学者とか、美術史家とか、建築評論家とか、写真評論家とか、なにかの肩書きでは示すことができない。それは編集者が、著者のプロフィルを書くときに、さまになるように勝手に付けているにすぎない。

  • 多木浩二『雑学者の夢』岩波書店、2004年、p.1

しかし上のように書いておきながら、じつは多木さん自身がその数年後の森山大道論で「私は哲学者であり文化の研究者である」と書いているのを今回色々と資料を読み返していて知った(「都市の神話」『森山大道論』淡交社、2008年)。とはいえこれも「自分は写真評論家ではない」ということを説明する一節ではあるのだけど、まあ実際に妥当なところだろうと思い、書評でもこの言い方をアレンジして用いた。下は、今たまたま読んでいた本で哲学の説明として書かれている文。

哲学者(philosophos)というギリシア語は、学者(sophos)と対立する言葉であって、知識をもつことによって知者と呼ばれる人と異なり、知識(知)を愛する人を意味する言葉であります。[…]哲学の本質は真理を所有することではなくて、真理を探求することなのであります。哲学とは途上にあることを意味します。

  • カール・ヤスパース『哲学入門』草薙正夫訳、新潮文庫、pp.15-16