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箱根で宿泊した《ザ・プリンス 箱根芦ノ湖》(旧箱根プリンスホテル、設計=村野藤吾、1978年竣工)。ここはやはりiPhoneではなく一眼レフによる写真が主になった。一眼レフのほうが空間の奥行きを捉えるのに適していて、一眼レフが「視線」だとすると、スマホは「視面」という感じがする。以下、写真10点。
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当然といえば当然だろうが、建物はよくメンテナンスされている。独特なかたちも相まって、いつ頃の建築なのか、知らなければ判断が難しいかもしれない。その造形と湖畔の環境に則した分棟の形式が空間体験に物語性をもたらし、リゾートホテルとしての魅力に繋がっている。たぐいまれな建築的想像力。これからも長く使い続けられてほしい。と素直に思う一方、村野藤吾の建築は《世界平和記念聖堂》(1954年竣工)でも《谷村美術館》(1983年竣工)でも、どうもハリボテ的な軽さが感じられて(あるいは「建築的な重みが感じられない」と言うべきか)、白けるとまではいかなくても完全には乗り切れないという感じがする。《目黒区総合庁舎》(旧千代田生命本社ビル、1966年竣工、2002-03年改修)にはそういう印象を受けた覚えがないから(2015年9月11日)、とくに土的な材料で組積造的な見え方の建物に顕在する質なのかもしれない。仮に僕のこの感覚が確かなものだったとしたら、村野にとってそれは欠点だったのか、それともむしろ戦後社会における大衆のための建築に必然的な質だったのか。後者だとすると、それは僕自身が(村野が超えていこうとした)モダニズム的な建築観のなかにいることを示すことにもなりうる。
下の文は《箱根プリンスホテル》ができるだいぶ前、とくに竣工直後の《日生劇場》(1963年竣工)を念頭において書かれた批評の一節。

つまり、戦前の村野に、時代をこえた主体性を発見するわたしは、戦後の、登り坂の20年になると、人間主義が装飾主義にすりかわってゆく時代の内容と歩調を合わせたものを、彼のなかに発見する。それが劇的になればなるほど、人間から遠のいてゆくように感じられるのである。

  • 神代雄一郎「新建築40年の再評価」『新建築』1964年6月号

この神代雄一郎の指摘は、僕が村野の建築に受ける印象と通じるだろうか。しかし神代の批評をすべて読んでみると(村野の建築についてだけでなく、『新建築』創刊後の40年間の建築を振り返る文章)、それはそれで当時の時代性(モダニズム的な建築観)に強く影響されているようなので、今日においてどこまで確かな言葉か分からない。
ついでのメモ。著者42歳の文。

日本の40年間の建築に目を通して、もっとも欠けているのは、晩年の代表作とでもよばれるような、おちついた完成された仕事である、[…]刺激的なものや未完を感じさせるものはいくらもある。だが、そんな建築でこの世のなかが埋まってしまってはかなわない。戦争をはさんで、仕事のしにくかった40年ではある。だが、これからは、建築家も長生きして、晩年のおちついた代表作で、われわれの生活環境を埋めてほしいと思う。戦争を含まない40年の評価のときには、そうした作品で20点が埋まるようにしたいものである。

  • 神代雄一郎「新建築40年の再評価」『新建築』1964年6月号