昨日は早渕川沿いの道を自転車で上流のほうへ進み、センター北という駅の近くのイオンシネマ港北ニュータウンで、西川美和『すばらしき世界』(2020)を観た。物語としてすこしぎこちないところもあったものの、この監督らしい社会派で骨太な映画。それほど目立つシーンではないけど、ロケ地に《神奈川県立図書館・音楽堂》(設計=前川國男、1954年竣工)(2014年2月28日)が使われていた。

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『ホンマタカシ きわめてよいふうけい』(リトルモア、2004年)の表紙をめくった最初の見開きの写真(その写真集の主役である中平卓馬らしき人が道から川を眺めて小さく写っている)と同じ位置に立って撮った写真。晩年の中平卓馬が日々自宅の近所で写真を撮り歩いていたというその場所が、去年僕が越してきた家の隣町と言ってもいいようなところにあったことを、大竹昭子『眼の狩人』(新潮社、1994年)を読んでいて知った。

写真集『来たるべき言葉のために』の中に早渕川を撮影した写真がある。この写真集におさめられた写真を中平はほとんど否定しているが、橋の上から川の流れを正面にすえて撮ったこの一点は認めている。この川で生き直したからだという。(同書p.90)

今年の正月の日記で、「だから理想としては、いつまで経っても撮り尽くすことなく、日々の散歩のなかで延々と撮り続けていけるように写真を撮れるようになれたら、と思う。」と書いたけど(1月1日)、考えてみると中平卓馬は近所でそれをやっていたのだった。今日はじめて行った早渕川の周辺はまだ魅力的なひなびた風景が残っていて、そのうちあらためて写真を撮りに訪れたいと思った。

清家清の本をめくっていて、なんとなく引っかかった文。

かつて、染色工芸家の故芹沢銈介氏の美術館をこれも故白井晟一氏がこしらえ、できあがってから「芸術新潮」誌上でカンカンになって両者が大ゲンカをしたことがある。芹沢氏は自分の美術館が欲しかったのに、白井さんの「建築」作品が生まれてしまったのである。芹沢さんは建築家の選択を誤った。

  • 清家清『やすらぎの住居学』情報センター出版局、1984年、p.81

静岡市立芹沢銈介美術館の竣工は1981年。しかし国立国会図書館サーチでその頃の『芸術新潮』を検索しても、それらしいタイトルの記事はヒットしない。1982年6月号に「現代建築苦情帖」という記事があったので、図書館へ行ったついでに確認してみたのだけど、主に黒川紀章の建築を取り上げたルポルタージュで、白井/芹沢のことは書かれていなかった。
以下、芹沢銈介美術館の設計の経緯に関する白井昱磨氏の記述。前に白井晟一と民藝(柳宗悦)を対比してみたことがあったけど(2018年6月30日)、白井晟一は「民芸嫌い」だったらしい。

上の引用文にもうかがえるように、自らも前衛的な作家であったはずの清家清は、建築家の作品主義に対する批判意識が思いのほか強い。作品主義を貫いた弟子の篠原一男のことは、おそらく公的には生涯ほとんど語っていないと思うけど、自身のなかではどう位置づけていたのだろう。

期間限定で無料公開されていた、新井英樹の『宮本から君へ』(全12巻、1990〜1994年)と『キーチ!!』(全9巻、2001〜2006年)およびその続編である『キーチVS』(全11巻、2007〜2013年)をネットで読んだ。

この漫画家は《蟻鱒鳶ル》の岡さんを描いた短編「せかい!! 岡啓輔の200年」(『ビッグコミックスペリオール』2015年4号)でしか知らなかったものの、力強い作品で心を動かされた。いずれも最初のうちは作品世界がざわついていて話の筋が見えづらい。しかし徐々に引き込まれる。『宮本から君へ』というタイトルはすこし謎めいているけれど(「宮本」は主人公)、おそらく「君」は登場人物の誰かというより、この漫画を読む読者自身と思っていいだろう。若い人が社会に立ち向かう様を描き、もう若くない読者の心も奮い立たせるエンパワーメント系の作品。それが『宮本から君へ』では大学を出てまもない新社会人を主人公に日常のレベルで描かれていたのに対し、『キーチ!!』ではその日常から地続きで社会をひっくり返すような国家レベルの話になる。そのフィクショナルな展開は、しかしリアリティの線を外れず真に迫るものがあった。僕自身は年々保守の傾向が強くなっているけれど、こうした物語に高揚してみると、やはりよき革命への憧れみたいなものも自分のどこかにはあるのだなと思わされる。昔は小説や演劇が担っていただろうこうした力(個人を社会や政治に押し出す力)、大衆的なジャンルとしてのポテンシャルを、今は漫画が持っているのだと思う(ほかに音楽とお笑いは、昔も今もそのポテンシャルがあるだろう)。ジャンルとして資本主義の波に呑みこまれつつも、その波のなかでしか持てないような力。

ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ ディレクターズカット版』(1978)を観た。日常に覆われたショッピングセンターの空間のポテンシャルを、ゾンビという非日常の装置を用いて存分に使い倒す。およそ5年振りに観たけれど(2015年11月14日)、あらためて傑作だと思う。映画としての斬新さと人間の根源に触れる深さ、現代社会における大衆性と批評性を併せ持っている。

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近所を散歩しながら撮った写真。下の3点も含めて、わりと大きくトリミングしている。一発で構図をつかむ力がないということだろうけど、トリミング(刈り込む)というより、あらためて写真の重心をさぐるというか、現実の景色をふたたびフレーミングするような感じ。

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アルフレッド・ヒッチコック『ロープ』(1948)を観た。映画の空間という観点で、建築の講義でよく題材にした『裏窓』(1954)と対になるような作品かもしれない。『裏窓』は中庭型アパートのあちらとこちらで事件が展開するのに対し(並列関係/視覚的)、『ロープ』は高層アパートのペントハウス内部でボックス・イン・ボックス的に事件が展開する(包含関係/想像的)。『裏窓』は別々の時間に撮られただろう複数の映像を組み合わせることで一つの空間を起ち上げているのに対し(映画的)、『ロープ』は全編がほとんどワンシーンで、カット割りが極端に少なく、物語内の時間と映画の上映時間(80分)を同期させていることが実験的な試みだったらしい(演劇的)。

横山秀夫『ノースライト』(新潮社、2019年)を読んだ。一昨年古本で買ったまま手つかずにしていた本。ノースライトとは建物の北側から採り入れた光のこと。現代日本の建築士を主人公にしたミステリー小説で、ブルーノ・タウトの存在が物語の鍵になっている。

「建築家」を名乗ることに躊躇いを覚える、そんな数知れない無名の建築士たちの内面世界は複雑だ。多くが屈折したプライドに胸を焦がしている。自分は他者とは異質だという強烈な自負心。排他的かつ利己的でなければ意匠などできるものかという荒ぶる思い。だがその一方で、他人の創り出した良いものを良い、美しいものを美しいと認めることができなくなったら、もはや建築士を名乗る資格すら失うと誰もが知っている。(p.52)

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自転車で二子玉川まで出かけた。多摩川の土手は空が開けて見晴らしがよく、ずっと先までつづく一本道を自転車で走るのはこの上なく爽快だ。河川敷はやはり都市の異質な空間で写真を撮りたくもなるのだけど、自転車に乗っているとなかなかタイミングが取りづらい。自転車のほうが徒歩よりも移動量が多くなるからといって、そのぶんシャッターチャンスが増えるというわけではない。むしろどんどんとこぼれていく。上は行きにiPhoneで撮った写真、下は帰りに一眼レフで撮った写真。

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アトリエコ設計の《上池袋の住宅》を見学した。立て込んだ住宅地で不定形の敷地の真ん中あたりに正方形平面、壁式RC造3階建ての白くて大きい近代建築的なキューブが立っている。シンプルな外形に包まれた内部の複雑さをファサードが象徴しているけれど、内部は街路的な空間を媒介にして3世帯の住戸が立体的に組み合わされている。各階のスラブの外周部が幾何学的に細かく欠き取られ、吹き抜けやトップライトや凹凸として上下の層を様々に関係づけているのが特徴的。そうしたコンクリートの外殻に覆われたなかで、木の造作によって生活の場が仕切られている。以下、写真9点。

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いまおかしんじ『いくつになっても男と女』(2007)をGYAO!で観た(明日まで無料配信中)。劇場公開時のタイトルが『いくつになってもやりたい男と女』で、その後ソフト化の際に『たそがれ』というタイトルにもなっていたらしい。『いくつになっても男と女』は味があって良いタイトルだと思う。
GYAO!の作品紹介で「大ヒット作『れいこいるか』のいまおかしんじ監督が贈る心温まるファンタジー。」と書いてあって妙におかしかった。R-15指定の熟年モノのピンク映画だけど、観てみると実際、いまおか作品のなかでは『れいこいるか』(2020年8月9日)に近い人生観・時間観を感じる。『れいこいるか』がふたりの男女をめぐる20数年の付かず離れずの時間を描いていたなら、こちらは中学生〜65歳までの50数年の時間を(ネガとしてアクロバティックに)描いている。主演の多賀勝一に安定感があった。

加古里子(1926-2018)による絵本『あなたのいえ わたしのいえ』(福音館書店、初版1969年)を読んだ。「もし、すむいえが ないとしたら ひとは くらすのに とても こまります。」という認識を基点に、住宅が住宅として成立するためには何が必要かを、屋根から順に検証していっている。
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奥付には2011年以降に追記されたらしい作者の言葉が載っている。

家の造りを屋根、壁、出入口、床、窓の順に述べたこの本をみて、専門の建築家はきっと笑われるでしょう。しかし、まだ戦災の名残が残っていた当時、浴室、台所、トイレのない寄宿舎などに住む人が大勢いたのです。そうした所の子に「自分が住んでいる所も立派な家だ」と思ってもらえるよう描いたのが、上に述べた5つの要素となりました。

この加古の言葉は、以前(2016年2月27日)にも引いたことのある次の言葉を思い起こさせる。

星田は分譲ですが、当時でだいたい四、五千万くらいだったかな。周りは一億近いような、より高級な住宅地なんです。で、そこの子供たちと向こうの子供たちが同じ学校に行くわけですが、そのときに子供たちに誇りを持ってほしいなと。そのことを実現できないかという思いはありました。(坂本一成)

ふたつの言葉の同質性は明らかだと思うけど、そういえば坂本先生も1970年代から80年代にかけて、建築の成立条件を柱や床や壁などの要素に還元して考えていた。そうやって装飾性や記号性を排して形式主義的に建築を捉えようとする坂本先生の抽象思考も、建築の社会通念上の価値(示威的な豪華さみたいなもの)を批判し相対化する点において、加古里子と近いメンタリティに基づいているように思える。どちらにも近代的な平等の意識が見て取れる。平等と抽象というふたつの概念が近代という地平において隣り合っている。
さらに類推してみると、上に載せた加古の絵と素朴に見て似ていると言っていいだろう18世紀マルク=アントワーヌ・ロージエの〈プリミティブ・ハット〉(primitive hut - Google 検索)はどうだったろうか。建築の実務家ではないロージエ神父による〈プリミティブ・ハット〉は、当時の様式建築の過剰な装飾を批判した観念論というイメージが強い。それは新古典主義からモダニズムへと続く「合理主義の先駆け」(原始の小屋 | 建築討論WEB)とも言われるけれど、じつはそこにおいても、美的な潔癖さを超えて建築の伝統的・階級社会的な価値を解体するような、平等あるいは博愛の精神が根本にあったのだろうか。

古谷利裕さんが1999年に開設したホームページ「無名アーティストのWildlife」の消滅を告げている。サイトの更新はたぶんもう10年以上前(2007年?)に止まっているはずだけど、アドレスを提供していたSo-netの関連サービスの終了にともない、残っていたホームページ自体がなくなることになったのだった。僕も2003年か2004年頃にこのホームページで古谷さんのことを知り、以来「偽日記」を読み続けてきたから、しみじみした気分になる。


ところでじつは僕も同じSo-netのサービスで、2003年に個人のホームページを開設していたのだった。大学院を出てまもない4月か5月、たしか勤め先もまだ決まらない時期に、手持ち無沙汰でホームページを起ち上げ、大学の卒業設計や自分で書いたエッセイ、撮影した写真、そして日々の日記を載せていた。僕のほうは2007年で日記をブログに移行し(ホームページの作成・管理に使っていたDreamweaverがパソコンの買い換えによって使えなくなった)、その後ホームページは手つかずになっていたのだけど、それが数日前、古谷さんのホームページと同時にインターネットの世界から消えることになった。

昨日散歩して撮った写真。外壁の色が対比的な2軒の住宅が目立つけれど、撮影した時はそこをとくに意識していたわけではない。こちら側も画面の右から左へ上がる階段を登りながら横方向の視界が開け、斜面に立つ住宅群のあり方や光が照らして面や輪廓がはっきりと浮かび上がっている様子に反応してシャッターを切ったのだと思う。建物の色はそういえばちぐはぐだったなというくらい。
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もう1枚も、散歩しながら視界に入ってきたものに反応して撮った写真。前の写真と同様、奥行き方向に層状になった空間と、それに直交して左右の画面外にまで連続した空間性を感じさせる傾斜した道路、それぞれに関係し合いながら併存する線と面、それらを浮かび上がらせる光と影。そういう要素を複合的に感じて撮ったのだと思う。