こういう発言をしていいのか分からないけれど、星田は分譲ですが、当時でだいたい四、五千万くらいだったかな。周りは一億近いような、より高級な住宅地なんです。で、そこの子供たちと向こうの子供たちが同じ学校に行くわけですが、そのときに子供たちに誇りを持ってほしいなと。そのことを実現できないかという思いはありました。そこに住んでいることの誇りが持てるような街をつくりたかった。(坂本一成

コモンシティ星田(A2ゾーン設計=坂本一成、1991/92年竣工)を見学した。大阪府交野市。高台の北側斜面に112戸の分譲住宅が細かく群をなしながら散在する。通例、各敷地ごとに雛壇状に造成される傾斜地を、元の地形を生かしてスロープ状に造成し、大中小さまざまな道を通しながら、自然発生的な集落のような在り方の住宅地をつくっている。こうしたイレギュラーな形式を採用することで、いわゆる設計のデザインや図面作成だけにとどまらず、施主や施工者も交えた現実的な調整作業が膨大に発生しただろうことは想像に難くない。実際に現地を訪れてみて、あらためてそれをするという信念の強さを思い知らされた。他の人だったらなかなかやらないと思う。
その結果かどうか、築25年を迎えてところどころで劣化は目に付くものの、明らかな空き家もなく、今もひとつの街として息づいている。このまえ訪れた熊本の託麻団地()と異なり、戸建ての分譲なので、なにか不具合が出れば個々の住戸で保全・改修がされるという仕組みも機能しているのだろう。住戸の改修に関しては、住民のなかから交代制で担当が選出され、事前に改修計画のチェックがされるという。実際の改修部分を見た限りでは、それほど厳しいデザイン規制ではないようだけど、そのような自治が続いていることも、街が息づいていることの要因でもあり結果でもあるのだと思う。
この街の道はすべて公道なので、制度上は誰が歩いていても差し障りない。しかし、例えば外国の見知らぬ集落を歩くときのように、自分がよそ者であることを強く感じさせる。このことは、「その空間がすでに私のものではなく特定の誰かのものであることを強く感じさせる」()という坂本先生のほかの作品の在り方とも通じるかもしれない。コモンシティ星田では、単に形状や形式が伝統的な集落風というだけでなく、その場所の質まで含めて伝統的なものと繋がっている。いわゆる制度的なコモンスペースを排してパブリックとプライベートを直接向かい合わせるという設計意図は、あくまでそういう全体で統合された場所の質を前提に成り立っている。そうでなければ、金属やパステルカラーの外見に依存してテーマパーク的になるか、個々の部分が断片化して全体がばらばらになってしまう気がする。
ところで今、建築界でコモンシティ星田というと、イコール坂本一成の設計作品と認識されていると思うのだけど、実際に坂本先生がコンペで選ばれて担当したのは、住戸数にして全体の1割強の部分にすぎない。コモンシティ星田全体は、他にもより高級な戸建て住宅地区(雛壇造成)や一般的なマンション、デザイナーズ的な集合住宅、それらに付随するコミュニティ施設など、多様なものを含んで計画・実現されている。そして坂本先生が担当した地区に住んでいる人も、どちらかというと「その地区に住んでいる」というより、「コモンシティ星田全体に住んでいる」という感覚のほうが強いらしい。それぞれの地区や住戸のタイプは異なるとしても、同じ名前の住宅地に住み、同じ自治会に属してコミュニティ施設や季節のイベントを共有し、子どもたちが同じ学校に通うという共同性を考えてみれば、そうした感覚は日常的で当たり前のものかもしれない(坂本先生が設計した住宅に住んでいた家族が、子どもの成長に応じて、より一住戸の規模が大きい地区のほうに移っていくという傾向もあるそうだ)。
例えばコモンシティ星田が、ある種のニュータウンのように特定の世代に依存して高齢化することがなく、街として持続的に息づいているのは、こうした複数のタイプの住戸が併存していることにもよるのだと考えられる。つまり、異なる規模や間取り、文化性・社会性を持つ住戸が、異なる属性の人々を招き、混在させる。その多様性が、街全体の新陳代謝やダイナミズムをもたらしているのではないか(この学区の子どもたちの学力が相対的に高く、そのことがまた新たな若い住人を呼ぶ、という話も聞いた)。
おそらく坂本先生にとっては、他の地区の住戸のタイプ(社会で一般的につくられる住宅のタイプ)にはそれなりに批判意識があり、だからこそ強い信念をもって、ユニークで魅力ある街を生み出しえたのだと思う。そしてそこでは画一的でない、多様な場の在り方が目指されていた。ただ、それと同時に、別のレベルでの社会的な多様性がこの街の構造を担っているらしい。その重なりもまた興味深いことだった。
以下、写真15+1点。









112の住戸の構造は、前作の《House F》(1988)と同じく、下部が鉄筋コンクリート造、上部が鉄骨造。下部で地形の高低差を吸収しつつ、その固さや閉鎖性によってパブリックとプライベートの境界を明確にする。一方で、基本的に主室は上階に置かれ、開口部を多くとり、街と連続する。下階のコンクリート部分も、街に対してある雰囲気をつくっている。


竣工時にはコンクリートの打ち放しだったはずの外壁が、モルタル吹き付けになっていた住戸がいくつか目に付いた。さらにそうした住戸が2〜3軒でまとまって点在していたのが面白い。しかも隣り合う住戸で微妙に色が変えられたりしている。おそらく隣人同士のなんらかのやりとりを介して、同じ業者が同じ時期に塗り替えたのだと思う。地域のなかにより細かい地域性が生まれている。こうしたことは壁以外の部位でも見られるのかもしれない。


竣工時の写真では分からなかったことのひとつで、自動車の存在の大きさを知った。例えば託麻団地の場合、自動車は敷地の端のほうの駐車場にまとめて置かれていたけれど、ここでは各住戸にカーポートがある。こういう有機的に統合された街を自動車が行き来している光景が妙に印象深かった。伝統的な人間のための空間に、自動車の通行という異質な力の系が重なることの新鮮さ(本当はそこにさらに水路が、人間が行くことができない道として重なっているのだけど、今日は水が流れていなかった。流れているときといないときがあるらしく、『ぼくの伯父さん』の妹夫婦の家の噴水を思い出した)。それぞれの道は、ところどころで車止めのポールが出ていて、自動車では完全に敷地を通り抜けることはできない設計になっている。つまり敷地内に入ってくる自動車は、それぞれある特定の入口から特定のエリアの住戸に向かうようになっている。そうしたシステムにもこの場所の鍵があるのだと思う。