清家清の本をめくっていて、なんとなく引っかかった文。

かつて、染色工芸家の故芹沢銈介氏の美術館をこれも故白井晟一氏がこしらえ、できあがってから「芸術新潮」誌上でカンカンになって両者が大ゲンカをしたことがある。芹沢氏は自分の美術館が欲しかったのに、白井さんの「建築」作品が生まれてしまったのである。芹沢さんは建築家の選択を誤った。

  • 清家清『やすらぎの住居学』情報センター出版局、1984年、p.81

静岡市立芹沢銈介美術館の竣工は1981年。しかし国立国会図書館サーチでその頃の『芸術新潮』を検索しても、それらしいタイトルの記事はヒットしない。1982年6月号に「現代建築苦情帖」という記事があったので、図書館へ行ったついでに確認してみたのだけど、主に黒川紀章の建築を取り上げたルポルタージュで、白井/芹沢のことは書かれていなかった。
以下、芹沢銈介美術館の設計の経緯に関する白井昱磨氏の記述。前に白井晟一と民藝(柳宗悦)を対比してみたことがあったけど(2018年6月30日)、白井晟一は「民芸嫌い」だったらしい。

上の引用文にもうかがえるように、自らも前衛的な作家であったはずの清家清は、建築家の作品主義に対する批判意識が思いのほか強い。作品主義を貫いた弟子の篠原一男のことは、おそらく公的には生涯ほとんど語っていないと思うけど、自身のなかではどう位置づけていたのだろう。