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いまおかしんじ『れいこいるか』(2019)を新宿のK's cinemaで観た。心のこもった映画。神戸の震災で幼い娘を亡くした男女はどちらも「ダメ人間」の要素は多分に持っているのだけど、それと相反して2人の役者の存在には確かな品があり、そのズレあるいはバランスがこの作品の根幹にある気がした(いまおかしんじの映画では役者に品がないことは必ずしも悪いことではなく、品がないからこそ作品世界が成り立っているという場合も多々あると思う)。
ここしばらく多木浩二のテキストを読んでいるせいか、この映画が下の言葉と響いてくる。

しかし最近流行った映画『タイタニック』になぞらえていえば、巨船が沈没することは事件である。人びとはそれを歴史的事件として記憶するだろう。しかし難破に続く溺死者のながい漂流──それは歴史学の外にある。次々にどこかから流れてきては、浜辺に打ち上げられる溺死者の群れ。歴史家はそんなことに眼もくれないのだ。もちろん溺死者というのは比喩だ。写真は、この溺死者のごとく生きている無名の人びとに眼を凝らす。彼らの肌の色つやも息づかいも「歴史学」のなかには書き込まれない。いわゆる歴史家は肉体を捉え損なう。彼らの悲しみにも、彼らの孤独にも、怒りや恨みの深さにも気づかない。写真はその肉体に視線を投げかける。

  • 多木浩二「TRACES OF TRACES」『日本列島クロニクル──東松照明の50年』東京都写真美術館、1999年(所収:多木浩二『写真論集成』岩波現代文庫、2003年)

震災後の20数年の時間を1時間40分に圧縮したこの映画では、夫婦は別れた後も同じ街で暮らし、身近な関係にあるという印象を受けるのだけど、実際は数年に一度会うか会わないかの関係でしかない。そのズレにも興味をひかれた。数年間会うことがなく、この先も会うかどうか分からない相手を思うことは、死者を思うこととどう違うのか。その相手と再び巡り会える可能性があるということは、「死者とはもう会えない」ということとどういう関係にあるのか。
上映後、たまたまその場に一人だけ残っていた僕が撮ることになった写真。


「見ず知らずの人にすみません」と言われて「いえいえ」みたいに返したけど、「こちらのほうは前からいまおかさんの映画を見て知っています」と言えばよかった。この役者さん(左:佐藤宏)はいまおか作品でいつも非現実的な変わった役柄で出てくるのだけど(ツチノコとか)、今回はリアリズム寄りな作品のあり方に則して、いつもよりマイルドに物語に組み込まれるとともに、物語の外在的な軸にもなっていた。時空を超えて下町的多様性や人情味を象徴するような神話的存在として描かれつつ、最後のシーンでふいに、この人物は「異質な他者」であるだけでなく「自分」でもあるのだなという感じがした。
『れいこいるか』の英題は『Reiko and the Dolphin』というらしい。たぶん作品の真意を示す唯一の訳というよりはあくまで便宜的な訳だと思うけど、日本語でダブルミーニングになっている「いるか」を動物のイルカの意味に限定するとしても、「and」なのか「the」なのかという点にも色んな解釈がありえると思う。英語のニュアンスはよく分からないけれど、例えば『Reiko, the Dolphin』とすると、「and」の意味に加えて「=」あるいは「≒」といった意味も帯びてくるだろうか。れいこの没後、20数年のあいだ身近にあったイルカのぬいぐるみが、その時間とともに、れいこの象徴、あるいはれいこ自体になっているという解釈。というようなことを考えていると、物語の中心にある元夫婦にとってのイルカの存在と、周縁にあると思っていたヒロシ(佐藤宏)にとってのウルトラセブンや鉄人28号の存在がにわかに響き合ってきて、この映画が人間の記憶やイメージとモノや偶像との関係のあり方を描いた作品としてあらためて興味深く思えてくる。