加古里子(1926-2018)による絵本『あなたのいえ わたしのいえ』(福音館書店、初版1969年)を読んだ。「もし、すむいえが ないとしたら ひとは くらすのに とても こまります。」という認識を基点に、住宅が住宅として成立するためには何が必要かを、屋根から順に検証していっている。
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奥付には2011年以降に追記されたらしい作者の言葉が載っている。

家の造りを屋根、壁、出入口、床、窓の順に述べたこの本をみて、専門の建築家はきっと笑われるでしょう。しかし、まだ戦災の名残が残っていた当時、浴室、台所、トイレのない寄宿舎などに住む人が大勢いたのです。そうした所の子に「自分が住んでいる所も立派な家だ」と思ってもらえるよう描いたのが、上に述べた5つの要素となりました。

この加古の言葉は、以前(2016年2月27日)にも引いたことのある次の言葉を思い起こさせる。

星田は分譲ですが、当時でだいたい四、五千万くらいだったかな。周りは一億近いような、より高級な住宅地なんです。で、そこの子供たちと向こうの子供たちが同じ学校に行くわけですが、そのときに子供たちに誇りを持ってほしいなと。そのことを実現できないかという思いはありました。(坂本一成)

ふたつの言葉の同質性は明らかだと思うけど、そういえば坂本先生も1970年代から80年代にかけて、建築の成立条件を柱や床や壁などの要素に還元して考えていた。そうやって装飾性や記号性を排して形式主義的に建築を捉えようとする坂本先生の抽象思考も、建築の社会通念上の価値(示威的な豪華さみたいなもの)を批判し相対化する点において、加古里子と近いメンタリティに基づいているように思える。どちらにも近代的な平等の意識が見て取れる。平等と抽象というふたつの概念が近代という地平において隣り合っている。
さらに類推してみると、上に載せた加古の絵と素朴に見て似ていると言っていいだろう18世紀マルク=アントワーヌ・ロージエの〈プリミティブ・ハット〉(primitive hut - Google 検索)はどうだったろうか。建築の実務家ではないロージエ神父による〈プリミティブ・ハット〉は、当時の様式建築の過剰な装飾を批判した観念論というイメージが強い。それは新古典主義からモダニズムへと続く「合理主義の先駆け」(原始の小屋 | 建築討論WEB)とも言われるけれど、じつはそこにおいても、美的な潔癖さを超えて建築の伝統的・階級社会的な価値を解体するような、平等あるいは博愛の精神が根本にあったのだろうか。