昨日はその後、名古屋のガレリア フィナルテで「岡﨑乾二郎展」(〜12/22)を観た。充実した作品群。と思うけれど、タイプとしてはこれまでの作品と同型なので、今回の出展作について取り立ててなにかを言葉にするというのが難しい。19時の閉廊まで滞在。東京への帰り際にふと思い立ち、はじめてジュンク堂書店ロフト名古屋店を訪れた。創刊以来お世話になっている担当の方に挨拶できればと思ったのだけど、聞けば先月池袋本店に異動されたらしい。新刊の『建築と日常の文章』()をはじめ、バックナンバーも並べてくださっていた。


ひさしぶりの出張(日帰り)で、愛知県常滑市INAXライブミュージアム)と岐阜県の多治見市モザイクタイルミュージアム)をハシゴした。県を跨いではいるものの、それぞれの最寄り駅同士は名古屋を挟んで電車で80分程度の距離。どちらもタイルを扱うミュージアムとして、ちょうど2館をめぐるスタンプラリーも行われていた。以下、写真各2点。

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恵文社一乗寺店オンラインショップの『建築と日常の文章』の商品ページ。

いつもながら丁寧に出版物を読み込んだ上での主体的な紹介文で、ありがたくも恐れ入ります。リンク先で関連商品として挙げられている『建築と日常』No.5、『建築と日常の写真』、『建築のポートレート』のページもぜひ合わせてご覧ください。



昨日、展覧会を観る前に散歩しながら撮った写真。どちらも多少の角度補正+トリミングあり。
たとえば上の写真の場所は、現実の散歩の体験のなかでは背景の鉄塔や右手のピンク色の扉の貸倉庫が強い存在感を持っていた。そのことがシャッターを切る要因になっていると思う。しかしこうして写真で見てみると、それらの存在感は薄らぎ、画面の中央にある平屋の民家がまさに中心的な存在になっている。プロポーションやスケールや構成になにかしら惹かれるものがある住宅だけれども、写真を撮ったときにはそうしたところまで具体的に意識はしていなかった。写真に撮ることで、そのような在り方が詳しく見えてきた。
こういったことが「カメラの等価性」というものの作用だろうか。しかし一方で、この場所ではむしろ鉄塔や貸倉庫の存在感をありのままに捉えたほうが眼差しとしては自然でニュートラルのような気もするし、それをせずに民家を中心に据えた客観的な構図をつくったのは僕の好みというか手癖ないし作為のようにも思われる。そういうことを考えると、そもそも世界のなかでまったく等価ではなく存在するはずの無数の事物に対し、それらを等価に捉えるということ自体がどういうことなのか分からなくなる。少なくともそこでの「等価」は、世界あるいは事物の側にある基準ではなく、やはりその時々の人間の側の基準に基づいているのではないかと思う。たとえば「市井の民家を建築家の作品と等価に撮る」だとか、「建築とそこにいる人々を等価に撮る」だとか、そういうことならば感覚的に納得しうるのだけど、あらゆるものを等価に撮るというのはよく分からない。

墨田区向島のTABULAEで、散策研究会 Cadavre K「徘徊する観察者 Vacant Lot」展を観た(本日まで)。日常的な街の景色を写した写真と動画の展示。こう言うととても無礼なようだけど、「僕が撮りそうな写真だな」と素朴に思った。ただ、作家のテキストを読むと東日本大震災への問題意識を基点にしているようなので、スタンスとしては大きく異なるのだろう。

散策またその写真記録は、当初、アートとしてはまったく考えられてはいなかった。むしろ、3.11の衝撃は、自然災害においてのみならず、政治的・文化的にもアートの「創造」的な「表現」による「生産」を不可能にしたように思えたからです。したがって、今回の展示においても、それへの疑いが根底にはあることを記しておきます。

テキストでは続けて、「地形・植生・気象・家屋の全般を観察対象にするということは、いかなる些細な事象も見落とすことなく全体を知覚・認識するということ。世界のすべてを対象にするということです」と書かれている。しかし世界のすべてを対象化し、いかなる些細な事象も記録し尽くそうとするような態度は、それこそこの震災の前提にあるような近代に特徴的な態度と言えるのではないだろうか。作品そのものには確かに面白いところもあると思うのだけど、このあたりのコンセプトが僕にはよく理解できなかった。「カメラの眼は原理的にいって、ヒトの眼と違い、“すべてのものを等価なもの”として扱うことができた」という言葉もそうで、たとえばある街並みの写真を撮ったとき、そこで「地形」や「植生」や「気象」や「家屋」が本当に等価に写っているとは僕には思えない。視覚の特権化もまた近代に特徴的なことの一つではないかと思う。


アトリエコ設計のO邸を見学。奥行きの深い敷地で平面を縦長に2分割し、一方を開放的に、もう一方を閉鎖的につくっている。開放的なほうは奥に行くにつれ幅がすぼまり、逆に閉鎖的なほうは幅が広がっていくことで、住宅としての用途に対応している。幾何学的な強い構成と生活のイメージとの重ね合わせは以前見学したH邸に通じる(3月3日)。
見学後、そのまま歩いて駒込のときの忘れものへ行き、「佐藤研吾展──囲いこみとお節介」を観た(〜12/22)。ギャラリーが入る建物は阿部勤さんの設計による住宅建築(1994年竣工)。複数の木製のオブジェはそれぞれピンホールカメラの機能を持っており、それらで撮影された写真が合わせて展示されている。個々のオブジェには物体としての魅力があり、さらにそれが原始的ながら撮影機能を持つ道具であることにも惹かれるものがある。しかし一方で、その物体が様々なバリエーションで複数存在することは、その個々の道具性を弱め、あくまで作品然とした表情を前面に見せることになっている気がする。もし個々の物体がより純粋な道具だったなら、おそらくそこまでのバリエーションは必要ないだろう。むしろ作者はまず一つ一つの道具の個性を実際に使用するなかで知っていき、それぞれの道具との固有の関係を築いていく必要があるはずだ。もちろん一概に「道具」だと良くて「作品」だと駄目だということはないわけだけど、こうした道具性と作品性の二元論的な関係が問題になるあたりは、佐藤さんの先生である石山修武さんの仕事を思い起こさせる。


江戸東京たてもの園のその他の写真。前川國男邸はおそらくたてもの園のなかで最も「建築作品」としての密度が高いものだと思うけど、だから写真もその作品性に対峙するかたちで撮りやすい(実際によい写真が撮れるかどうかは別にして)。しかし他の多くの建物では、往時を再現して演出された状態をそのままフェイクと感じさせずに雰囲気よく切り取ろうとするような意識が働いて、そのことに自分で気がつくと写真を撮る気が薄れてしまう。以下2点。

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昨日は学生のとき以来で、小金井の江戸東京たてもの園を訪問。一昨年は《すみだ北斎美術館》(2016年12月15日)、去年は《太田市美術館・図書館》と《太田市民会館》(2017年12月7日)を見学した日本工業大学大学院「建築文化リテラシー」の授業で、今年は学生の希望を受け、《前川國男邸》(1942年竣工、1973年解体、1996年移築復元)を観に行った。伊勢神宮を参照したという*1中心性・垂直性が強い南面のファサード(元の敷地は南側が崖で開けていたらしい)に対し、内部はそれを感じさせない、天井が張られた白い箱型の空間の組み合わせ。その外部と内部の不一致には興味を惹かれるけれど、この建築が竣工後すぐに発表されるようなものではなかったことを考えても、おそらくそれほど狙いすました「対比」の表現ではなかったのだろうと思う。この建築の充実は、モダニズムや伝統に対するコンセプチュアルな思考だけでなく、当時の材料や技術や慣習、使い勝手の問題も含めて、原理的で明確なヴィジョンがないまま総合的に検討されたからこその結果と言えるのではないだろうか。建築家自身の住まいであるという条件も、その不純な豊かさに寄与しているかもしれない。以下写真2点。

*1:中田準一『前川さん、すべて自邸でやってたんですね──前川國男アイデンティティー』彰国社、2015年

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旧中野刑務所(旧豊多摩監獄、設計=後藤慶二、1915年竣工)正門を見学。フェンス越しに裏側だけだけど、それでも全体のプロポーションやレンガの積み方に非凡なものが感じられる。僕も意見書を提出した(10月21日)存続の問題については、一昨日、中野区が保存の意向を示したらしい。

パナソニック汐留ミュージアムジョルジュ・ルオー──聖なる芸術とモデルニテ」展を観た(〜12/9)。ルオー(1871-1958)は生涯キリスト教をテーマにしたけれど、秘教めいた閉鎖性がなくて取っ付きやすい。一方、たとえば最近観たボナール(10月27日)などとは異なり、展覧会でたくさんを並べて観るよりも、それぞれ教会なり民家なりで1点ずつその環境とともに経験すべき作品という気にもさせられる。時系列やカテゴリーごとに相対的に観る必然性をあまり感じさせない。
下は今回の展覧会のメインヴィジュアルにも使われている《ヴェロニカ》(1945年頃)という絵で、「キリストが十字架を背負ってゴルゴタの丘へと向かう道で、ヴェロニカという女性が布でキリストの汗を拭ったところ、その布にキリストの顔の跡が残ったとされる伝説」()に基づいているらしい。乾いた土のように絵の具を盛り重ねた最晩年の絵よりも、このくらいの時期のみずみずしい色彩の絵のほうが今の僕には響いてくる。しかしその好みはいずれ変わるかもしれないという予感も抱かせる。


昨日は大江宏の建築を見学した後、そのまま歩いて神保町を訪れた。写真は東京堂書店神田神保町店。新刊の『建築と日常の文章』()をはじめ、『建築と日常』を広く展開してくれていた。建築の人間からすると、東京堂は立地的に南洋堂と三省堂に挟まれ、どうしても影が薄くなってしまいがちだけれど、他の芸術系や人文系も含めて丁寧な棚作りがされた名店。今年5月の『建築と日常』No.5()からツバメ出版流通()に取次をしてもらうようになったことで、こういうお店にも細かい単位で雑誌が届くようになった。


特別公開中の農林水産省三番町共用会議所別館(旧農林省大臣公邸三番町分庁舎、設計=大江宏、1956年竣工)を見学した。『建築と日常』No.3-4()の「現在する大江建築」(→誌面PDF)にはなぜか載っていない建物。旧山縣有朋邸の庭園に向かって開かれ、細い丸柱と薄いスラブの秩序が全体を規定している。その外観はスレンダーできれいと言えばきれいだけど、その後の大江建築と比べると、形式性の度合いが強いように思える。庭に面する東面と南面ではプランニング上の条件は異なるはずなのに同等の柱廊が巡らされているし、大臣公邸といういかにも機密性が求められそうな建物で、内部の間仕切り壁をまたいで外廊下から各室を覗けてしまうのはいかがなものかという気もする。2階の凝った造りの和室から庭園を眺めようとしても、その間に座敷とほぼ同じ高さの土足の柱廊を挟んでいるのは、内部と外部(建築と庭園)の親和性を意図したデザインとは言いがたい。大江宏においてこうした建築の形式性の優先が、同時期の《法政大学55/58年館》を経て、より体験のなかで現れてくる空間の重視に移行していくと言えるのかもしれない。以下写真2点。

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第二十七回文学フリマ東京が無事終了(また遅刻した)。6回目の参加で、売上げは以下のとおり。括弧内は前回以前の数字。

  • 『建築と日常の文章』……8部
  • 『建築と日常』No.5……9部(19部)
  • 『建築と日常の写真』……1部(2部/16部)
  • 『建築と日常』No.3-4……0部(1部/7部/15部)
  • 『日本の建築批評がどう語られてきたか』……1部(0部/0部/0部/10部)
  • 多木浩二と建築』……2部(1部/7部/4部/2部)
  • 『窓の観察』……2部(10部/6部/8部/13部/22部)
  • 『建築と日常』No.2……0部(1部/2部/5部/2部/9部)
  • 『建築と日常』No.1……在庫なし(在庫なし/在庫なし/在庫なし/6部/13部)
  • 『建築と日常』No.0……在庫なし(在庫なし/在庫なし/在庫なし/1部/2部)
  • 販売合計=23部(34部/38部/32部/34部/46部)
  • 売上げ=31,400円(47,300円/53,900円/49,700円/31,815円/48,990円)
  • 参加費=5,500円(5,500円/5,500円/5,500円/5,000円/5,000円)

今回は出店数が過去最多で、入場者数も過去最多だったようだけど、『建築と日常』の販売はかなり厳しく、前回からも大幅に落ちて、過去最少になってしまった。目玉となる商品をうまく設定できなかったのがよくなかったかもしれない。僕の出身研究室(大学4年次)である明治大学建築史・建築論研究室が隣のブースで初出店していたのだけど、交替で店番をしていた学生たち4〜5人がほとんどまったく『建築と日常』に見向きもしなかったのも、主観的かつ客観的に印象ぶかく残念なことだった。


号外『建築と日常の文章』が印刷所から到着。全56ページの薄い冊子だけど、A4サイズの大判の誌面に20万字近くの文字(一般的な書籍1〜2冊分程度)を詰め込んだ。判型にしろ文字組にしろ、文章をもっとゆったりと読みやすくすることもできなくはなかったものの、経費の都合や去年の『建築と日常の写真』()との相同性、それと自分の文集を自分で出版することの僭越さもいくらか意識にあって、このようなかたちに落ち着いた。自分の文集を自分で出版することは、たしかに行為として気恥ずかしい気もする一方、これまでの文章を1冊の自律的な本にまとめることで、「ネットの文」「編集者の文」「無名の書き手の文」といった先入観からすこし離れたところで文章を読んでもらえるのではないかという期待もしている。

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小学校の5〜6年次の担任だった先生が今年度で定年を迎えるということで、地元で同窓会があった。ほとんどが20数年ぶりに会う人たち。ちょうど多くが40歳に達して、それぞれ社会や家庭でそれなりの立場にいるだろうにもかかわらず、印象は記憶のなかの小学生の姿と大して変わらない。子供から大人への成長の幅などその程度のものなのか、ひさしぶりに会ってみんなが瞬時に子供の頃に戻ったということなのか、それとも記憶のなかのそれぞれの姿は知らず知らずのうちに自分とともに成長していたのだろうか。そもそも小学生の時から印象が大きく変わったような人はこういう同窓会に参加したりしないという原理がある可能性も考えられる。
下の写真は今日先生が持ってきてくださった、当時の「班日記」のノートの1ページ。新刊の『建築と日常の文章』のはしがき(→PDF)で、「小学校高学年の頃、担任の先生に「長島は作文は今いちだな」と言われたことがある。」と書いたのはこの先生のことで、そんなことを書いたのはそれを書いた時すでにこの同窓会が予定されていて、先生のことをなんとなく思い出していたからでもあると思う。しかし下の文は今いちというより、今の自分でも普通に書きそうなものだ。むしろ文体など今より闊達で魅力があるくらいかもしれない。ただ、これは他にいくつかあった僕の文のなかでもよく書けていたもので、他のはいかにも大人に受けることを狙ったようなつまらない文だった。この文にもそういう意識は多少あるのかもしれないけど、しかし視点の置き方として、ある程度具体的な実感がないと書けない文でもあるように思える。誰のどんな絵を思ってこう書いたのかはまったく覚えていない。この朱字を書き込んでくださった時の先生よりも、もうだいぶ歳を取ってしまった。