昨日、展覧会を観る前に散歩しながら撮った写真。どちらも多少の角度補正+トリミングあり。
たとえば上の写真の場所は、現実の散歩の体験のなかでは背景の鉄塔や右手のピンク色の扉の貸倉庫が強い存在感を持っていた。そのことがシャッターを切る要因になっていると思う。しかしこうして写真で見てみると、それらの存在感は薄らぎ、画面の中央にある平屋の民家がまさに中心的な存在になっている。プロポーションやスケールや構成になにかしら惹かれるものがある住宅だけれども、写真を撮ったときにはそうしたところまで具体的に意識はしていなかった。写真に撮ることで、そのような在り方が詳しく見えてきた。
こういったことが「カメラの等価性」というものの作用だろうか。しかし一方で、この場所ではむしろ鉄塔や貸倉庫の存在感をありのままに捉えたほうが眼差しとしては自然でニュートラルのような気もするし、それをせずに民家を中心に据えた客観的な構図をつくったのは僕の好みというか手癖ないし作為のようにも思われる。そういうことを考えると、そもそも世界のなかでまったく等価ではなく存在するはずの無数の事物に対し、それらを等価に捉えるということ自体がどういうことなのか分からなくなる。少なくともそこでの「等価」は、世界あるいは事物の側にある基準ではなく、やはりその時々の人間の側の基準に基づいているのではないかと思う。たとえば「市井の民家を建築家の作品と等価に撮る」だとか、「建築とそこにいる人々を等価に撮る」だとか、そういうことならば感覚的に納得しうるのだけど、あらゆるものを等価に撮るというのはよく分からない。