小学校の5〜6年次の担任だった先生が今年度で定年を迎えるということで、地元で同窓会があった。ほとんどが20数年ぶりに会う人たち。ちょうど多くが40歳に達して、それぞれ社会や家庭でそれなりの立場にいるだろうにもかかわらず、印象は記憶のなかの小学生の姿と大して変わらない。子供から大人への成長の幅などその程度のものなのか、ひさしぶりに会ってみんなが瞬時に子供の頃に戻ったということなのか、それとも記憶のなかのそれぞれの姿は知らず知らずのうちに自分とともに成長していたのだろうか。そもそも小学生の時から印象が大きく変わったような人はこういう同窓会に参加したりしないという原理がある可能性も考えられる。
下の写真は今日先生が持ってきてくださった、当時の「班日記」のノートの1ページ。新刊の『建築と日常の文章』のはしがき(→PDF)で、「小学校高学年の頃、担任の先生に「長島は作文は今いちだな」と言われたことがある。」と書いたのはこの先生のことで、そんなことを書いたのはそれを書いた時すでにこの同窓会が予定されていて、先生のことをなんとなく思い出していたからでもあると思う。しかし下の文は今いちというより、今の自分でも普通に書きそうなものだ。むしろ文体など今より闊達で魅力があるくらいかもしれない。ただ、これは他にいくつかあった僕の文のなかでもよく書けていたもので、他のはいかにも大人に受けることを狙ったようなつまらない文だった。この文にもそういう意識は多少あるのかもしれないけど、しかし視点の置き方として、ある程度具体的な実感がないと書けない文でもあるように思える。誰のどんな絵を思ってこう書いたのかはまったく覚えていない。この朱字を書き込んでくださった時の先生よりも、もうだいぶ歳を取ってしまった。