墨田区向島のTABULAEで、散策研究会 Cadavre K「徘徊する観察者 Vacant Lot」展を観た(本日まで)。日常的な街の景色を写した写真と動画の展示。こう言うととても無礼なようだけど、「僕が撮りそうな写真だな」と素朴に思った。ただ、作家のテキストを読むと東日本大震災への問題意識を基点にしているようなので、スタンスとしては大きく異なるのだろう。

散策またその写真記録は、当初、アートとしてはまったく考えられてはいなかった。むしろ、3.11の衝撃は、自然災害においてのみならず、政治的・文化的にもアートの「創造」的な「表現」による「生産」を不可能にしたように思えたからです。したがって、今回の展示においても、それへの疑いが根底にはあることを記しておきます。

テキストでは続けて、「地形・植生・気象・家屋の全般を観察対象にするということは、いかなる些細な事象も見落とすことなく全体を知覚・認識するということ。世界のすべてを対象にするということです」と書かれている。しかし世界のすべてを対象化し、いかなる些細な事象も記録し尽くそうとするような態度は、それこそこの震災の前提にあるような近代に特徴的な態度と言えるのではないだろうか。作品そのものには確かに面白いところもあると思うのだけど、このあたりのコンセプトが僕にはよく理解できなかった。「カメラの眼は原理的にいって、ヒトの眼と違い、“すべてのものを等価なもの”として扱うことができた」という言葉もそうで、たとえばある街並みの写真を撮ったとき、そこで「地形」や「植生」や「気象」や「家屋」が本当に等価に写っているとは僕には思えない。視覚の特権化もまた近代に特徴的なことの一つではないかと思う。