清水宏『小原庄助さん』(1949)をプライムビデオで観た。音質不良。旧家の戦後の没落のありさまを、人柄(個性)・家柄(伝統性)・時節柄(時代性)の複合として描く。漂うユーモアとペーソス。映画の作り方は違うかもしれないけど、清水宏が小津安二郎の親友だった(Wikipediaより)というのは納得できる。旧時代と新時代へのまなざし、全体性と個性へのまなざし、ユーモアの感性、つまりは人間観みたいなものが通じる気がする。清水宏は10年ほど前にレンタルで何本か集中的に観ていた(2012年10月10日12月29日)。


富永讓+フォルムシステム設計研究所の内覧会。築40年、壁式RC造2階建てのアパートで、2階の2住戸を繋いでオーナー住居に改修する計画。あえて界壁に穴をあけることはせず、屋内化させたベランダによって、2つの領域を隔てたまま繋ぐ。以下、写真2点。

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ずっと公共建築のコンペに挑戦して…連続で入賞していきましたが、取る度に…段々、友達をなくしていく感じがありました。もう最後だから言うけど、建築家の男性の嫉妬深さにいじめられていましたね。篠原先生でさえ、段々冷たくなってくる。

日本建築学会のウェブマガジン「建築討論」で、長谷川逸子さんへのインタビュー「女性と建築の半世紀」を読んだ。建築界で受けた女性蔑視の経験が語られるなか、唯一名前が挙げられているのが篠原一男。ただし、「段々冷たく」の内容と原因はこのインタビューでは具体的に確認できない(篠原は気難しい人で知られているから、性別や年齢を問わず、疎遠になった人は少なくないだろう)。一般論として、ある人が社会で成功したとき、同業の「友人が遠のいていく」のはある程度仕方がないというか、(悪意で攻撃でもしてこない限りは)その友人の自由でもあるだろう。そのあたりどこまでが非難すべきことなのか、どこまでがジェンダーに起因することなのか、明確に線を引くのは不可能だけど、現代の情報環境および社会の風潮では、すべて一緒くたにフェミニズムの問題として拡散しやすい。ワンクリックで簡単にアクセスできるネットの文章だから、きちんと文意を捉えながら全体を読み通す人ばかりではなく、より刺激的な内容を求めて目につく単語単位で飛ばし読みするような人もいるに違いない。そういう状況下で、はたして「篠原先生でさえ、段々冷たくなってくる」という言葉は、話者がそこで思い浮かべている内容どおりに誤解なく受け手に届くだろうか。僕は言葉が不十分ではないかと思う。もし僕がこの記事の編集担当であれば、原稿作成の段階で、この部分についてあらためて話者に内容を確認して言葉を補完するか、それができなければ一文をカットする気がする(自分の言葉が誤解されて広まるのは話者にとっても不本意だろうし、このインタビューの雰囲気からすれば、相談自体は気兼ねなくできると思う)。
インタビューの場で話者が口にしたままの言葉が唯一真正なわけではないし、多様な解釈に開かれた文章が常に最善であるわけでもない。そういう意味で、「同世代の建築家の一人」である「エキセントリックな人」という部分も、読者に不要な想念を生ませる曖昧さを含んでいる。はたして前述の「建築家の男性の嫉妬深さ」とは、この人物がした行動に代表されるようなものと理解してよいのか。篠原一男は名前を出しているのに、より実質的に非があるらしいこの人物の名前はなぜ伏せられているのか。にもかかわらず「今では娘さんも建築の仕事をしている」という妙に具体的な情報は、その長谷川さんと同世代の建築家が誰なのか、今まさに建築界で働いている女性も巻き込んで余計な勘ぐりを生むのではないか(長谷川さんに近い同世代の建築家としてまず多くの人が思い浮かべるのは伊東豊雄さんだろう。ほかに富永讓、坂本一成、安藤忠雄…。うっすらとした疑念が、事実を確かめようもないまま無限定に人々の間に広がっていく)。下世話なネットニュースなら、そうやって事実の輪郭を曖昧にして読者の想像を掻き立てるのは常套手段だろうけど、当然この企画の趣旨はそんな次元にないだろう。
記事の全体は、今の長谷川さんにしか語れないことを引き出していて有意義だし、だからこそ大きな反響を生んでいるのだと思う。しかしその反響の大きさゆえに、この記事の言葉が持つ曖昧さを指摘しておきたくなった。語られていること自体は数十年前のことで、とりあえず現在進行形の緊急性があるわけではないのだから、学会の活動らしく、現代の問題につながる歴史的事象として、より丁寧かつ確実に位置づけるべきことのように思われる。

富永讓さんが語る卒業設計@横浜国立大学。それぞれリンク先からインタビューの全文(PDF)にアクセスできる。これだけ確かな知見を持った方が、非常勤講師の立場でこれだけ真摯に学生に向き合ってくれるのはすごく貴重なことだろう。語られている設計作品を知らなくても読んでいて面白い。卒業設計のコンテストみたいなものについては毎年ネット上でも話題になっているけど、そういうものになんとなく疑問や違和感のある若い人は読んでみるといいと思う。


『建築と日常』No.3-4の大江宏の企画で協力してもらった石井翔大さんの著書『恣意と必然の建築──大江宏の作品と思想』(鹿島出版会、2023年)。博士論文の研究をもとにした端正な評伝。
大江宏(1913年生まれ)は谷口吉郎(1904年生まれ)に一目置いていたようだけど、両者はいろんな点で重なる気がする。日本の文化に深く根ざした家系、モダニズムへの接近と乖離(同級生に代表的建築家──前川國男/丹下健三)、物事を一元化しない相対的思考、身体感覚としての日本の伝統…。後日、石井さんとスペースでトークする予定です。


昨日はその後、クリエイションギャラリーG8で「仲條正義名作展」を観た(〜3/30)。ポスターなどの平面の作品でも、やはり実物のもつ力は強い。あまり詳しく知らなかったけど、服部さんが惹かれるのはわかる気がする(この展覧会の広報デザインも服部一成さん)。型を軽快に外す自由さがありつつ、あくまで上品という。
会場を後にし、とあるパーティーに出席する。偶然にも生前の仲條氏と親交があった方と同じテーブルになり、その流れで連れて行ってもらった銀座のバーのマッチが仲條デザインだった。

松江泰治写真展「ギャゼティアCC」をキヤノンギャラリーSで観た(〜3/7)。去年の写美の展示(2022年1月18日)とわずかに重なっていたかもしれないけど充実の内容。細部まで存在感をもって写し出す大きなプリントで、これと比べると豪華な大判の写真集()もサムネイルに見えてしまう。
会場全体は暗く、個々の写真のみを浮かび上がらせるような照明なので、細部を見ようと顔を近づけると画面に自分の影が映ってしまう。それは作品の性質からして必然的に多くの人が経験する現象だと思うけど、なにか積極的な意図はあるのだろうか。あるいは理想的にはプリントではなく、同等の大きさ/細密さで画面自体が発光するモニターでの展示が適しているのかもしれない。
また理想的には、画面に写るものすべてを無限遠から等価に捉えるのが本質であるような作品群だと思うのだけど、比較的近距離から俯瞰で撮られた写真(ヒマワリ、ペンギン、お墓…)は、ことさら手前が大きく後ろが小さく写っていて、遠近法的な秩序が画面を覆っている。これは作者にとって他の空撮などの均質的な写真と区別されるべきものではないのだろうか。しかしその比較的近距離から撮られたもののうち、エルサレムの嘆きの壁の写真()は印象深かった。この写真家にとって珍しく意味性が強いと思われる写真。嘆きの壁に対して水平に立つ壁と直角に立つ壁。この2枚の新しい壁を含む空間の全体を俯瞰する。

先日(2月7日)予告したスペースでのトーク「精選建築雑談1 谷口吉郎・清家清・篠原一男」(大村高広・大室佑介・奥泉理佐子・能作文徳・出版長島)が無事終了。皆さんそれぞれの関心で本を読んでくださっていてありがたかった。今回は初の試みながら話者が5人もいて気を使ったけど(音声だけでスムースに進行させるのが不安だったので、裏ではzoomで繋ぎ、PCの画面上でお互いの顔を見ながら話をしていた)、『精選建築文集1 谷口吉郎・清家清・篠原一男』は建築の専門知識の量に関わらずいろんな読み方のできる本だと思うので、スペースのトークももっと気軽に開催してよい気がする。
以下、音源の直リンク。2時間あまりあるので、1.5倍速くらいの設定が聴きやすいかもしれない。

たとえば人間の平均寿命が50歳だった時代と比べ、現代は進歩したと幸福に感じたり昔の人を憐れんだりする人は多いかもしれない。だがもしいま100年後の人がやってきて、「未来の平均寿命は120歳だよ」と言われても、自らを不幸に感じる現代人は少ないのではないかと思う。「90歳で死ぬなんて可哀想」と言われても、大きなお世話だと思うかもしれない*1。だとすれば昔の人も「50年生きれば十分だ」と考えていたかもしれず、現代人から憐れみを受けるいわれはないことになる。
おそらくこれは単に寿命に限った話ではないだろう。現代において前時代的と批判されるような社会制度や社会通念も、過去においては人々に当たり前に受け入れられ、それぞれの人生の土台になっていたというものはあるはずだ。もちろん当時においてもひどいと言うほかない社会制度や社会通念はあっただろう。実際にどうだったかは想像するほかない。しかしそうした別の時代の人間への想像を欠き、観念的・画一的に他者を不幸だと決めつけるのは、現代の特権的な立場からの傲慢だと思われる。

*1:あるいはそれは僕がいま40代だからそう思うのであって、80代ならばまた別の感じ方をするだろうか。

『ケイコ 目を澄ませて』(2022年12月31日)、『どついたるねん』(2023年2月4日)からの流れで、クリント・イーストウッド『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)。ロードワークのシーンはなかったものの、女子ボクサー×老トレーナーという設定は『ケイコ』と重なる。主人公のキャラもどことなく近い(素直で頑固)。
イーストウッドの監督作は、僕には世界観がしっくりこないことが多いのだけど、後半の展開は昔観たときより違和感がなかった。「命より大事なものはない(寿命は長いほどよい)」という現代の絶対的な社会通念に対する問題提起。『どついたるねん』も命をかけてリングに上がる話だったし、このストレートな問題提起は多くのボクシング映画が内包するものかもしれない。しかしそういう意味で考えると、『ケイコ 目を澄ませて』は命とボクシング(あるいは「日常性」と「躍動する生」)を二項対立的に位置づける映画ではなかった。