ずっと公共建築のコンペに挑戦して…連続で入賞していきましたが、取る度に…段々、友達をなくしていく感じがありました。もう最後だから言うけど、建築家の男性の嫉妬深さにいじめられていましたね。篠原先生でさえ、段々冷たくなってくる。

日本建築学会のウェブマガジン「建築討論」で、長谷川逸子さんへのインタビュー「女性と建築の半世紀」を読んだ。建築界で受けた女性蔑視の経験が語られるなか、唯一名前が挙げられているのが篠原一男。ただし、「段々冷たく」の内容と原因はこのインタビューでは具体的に確認できない(篠原は気難しい人で知られているから、性別や年齢を問わず、疎遠になった人は少なくないだろう)。一般論として、ある人が社会で成功したとき、同業の「友人が遠のいていく」のはある程度仕方がないというか、(悪意で攻撃でもしてこない限りは)その友人の自由でもあるだろう。そのあたりどこまでが非難すべきことなのか、どこまでがジェンダーに起因することなのか、明確に線を引くのは不可能だけど、現代の情報環境および社会の風潮では、すべて一緒くたにフェミニズムの問題として拡散しやすい。ワンクリックで簡単にアクセスできるネットの文章だから、きちんと文意を捉えながら全体を読み通す人ばかりではなく、より刺激的な内容を求めて目につく単語単位で飛ばし読みするような人もいるに違いない。そういう状況下で、はたして「篠原先生でさえ、段々冷たくなってくる」という言葉は、話者がそこで思い浮かべている内容どおりに誤解なく受け手に届くだろうか。僕は言葉が不十分ではないかと思う。もし僕がこの記事の編集担当であれば、原稿作成の段階で、この部分についてあらためて話者に内容を確認して言葉を補完するか、それができなければ一文をカットする気がする(自分の言葉が誤解されて広まるのは話者にとっても不本意だろうし、このインタビューの雰囲気からすれば、相談自体は気兼ねなくできると思う)。
インタビューの場で話者が口にしたままの言葉が唯一真正なわけではないし、多様な解釈に開かれた文章が常に最善であるわけでもない。そういう意味で、「同世代の建築家の一人」である「エキセントリックな人」という部分も、読者に不要な想念を生ませる曖昧さを含んでいる。はたして前述の「建築家の男性の嫉妬深さ」とは、この人物がした行動に代表されるようなものと理解してよいのか。篠原一男は名前を出しているのに、より実質的に非があるらしいこの人物の名前はなぜ伏せられているのか。にもかかわらず「今では娘さんも建築の仕事をしている」という妙に具体的な情報は、その長谷川さんと同世代の建築家が誰なのか、今まさに建築界で働いている女性も巻き込んで余計な勘ぐりを生むのではないか(長谷川さんに近い同世代の建築家としてまず多くの人が思い浮かべるのは伊東豊雄さんだろう。ほかに富永讓、坂本一成、安藤忠雄…。うっすらとした疑念が、事実を確かめようもないまま無限定に人々の間に広がっていく)。下世話なネットニュースなら、そうやって事実の輪郭を曖昧にして読者の想像を掻き立てるのは常套手段だろうけど、当然この企画の趣旨はそんな次元にないだろう。
記事の全体は、今の長谷川さんにしか語れないことを引き出していて有意義だし、だからこそ大きな反響を生んでいるのだと思う。しかしその反響の大きさゆえに、この記事の言葉が持つ曖昧さを指摘しておきたくなった。語られていること自体は数十年前のことで、とりあえず現在進行形の緊急性があるわけではないのだから、学会の活動らしく、現代の問題につながる歴史的事象として、より丁寧かつ確実に位置づけるべきことのように思われる。