小津安二郎の『お茶漬の味』(1952)、『早春』(1956)、『東京暮色』(1957)を観た。3作とも、去年まとめて観た小津の作品(9月13日)よりも人間の負の側面の描写が強い。社会的に規定された人間(男女/家族)の過ちやすれ違いの生々しさ、切実さは、かたちは違うとはいえ、ベルイマンやカサヴェテスの作品におけるそれにも比肩しうるかもしれない。一般に小津の映画というと、小市民の平凡な生活を淡々と描いていると思われがちだけれども、そう思われて不思議ではない安定した下地があるからこそ、より感情的な様々な事柄も際立ってくるといえるだろうか。どれも同じような形式主義的な作品に見えて、だからこそ個々の作品ごとの差異がそれぞれの存在を明確に特徴づける。一にして多、多にして一。

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昨日海岸で撮った写真。これも900×600pixelでアップロードしているのだけど、この新しいブログ上では縮小して表示されてしまい、なんとなく物足りない(写真をクリックすると拡大表示される)。という一方で、去年の11月に買ったスマホの画面で古谷さんのブログの写真()を見てみたら、表示サイズが小さいことがマイナスになっておらず、むしろプラスにさえなっているように感じられた。古谷さんの写真については昔「10+1 website」のアンケートで、抽象という言葉をキーワードに言及したことがあったけれど()、その抽象ということと、画面が小さくても成り立つということには関係があるのかもしれない。去年書いた(1月15日)熊谷守一の絵が小さいということにも繋がりそうな気がする。
以下、写真4点。 続きを読む

平成最後の正月休み。毎年恒例のように実家の近くの海岸を散歩した。今年はいつもの一眼レフのカメラに加えて2ヶ月前に初めて購入したスマホも持っており、ふと動画を撮ってみる気になって、さらにそれをその場でツイッターにアップしてみるなどした。

初心者のわりにけっこうよく撮れたと思っていたけど(序盤に写った女性が終盤ふたたび画面に入ってくるところとか)、パソコンの大きな画面で見てみると、回転の速度が速すぎて目が落ち着かない。撮っているときは、あまり回転を遅くすると水平の動きがぶれたり、時間がかかるぶんデータ量が増して扱いづらくなったりする気がしていた。
しかし一眼レフにも動画撮影の機能は付いているのに、どういうわけかそちらはあまり使ってみる気にならない。静止画ならばそれなりにきれいな映像が撮れるけど、動画で同じ完成度を出すにはよりテクニックが必要になるからかもしれない。その点、スマホは動画でもより気楽なツールとして、雑に使ってみることができる。いずれにせよ建築なり空間なりを写すのに動画という形式の可能性を無視できなくなりつつある。

2009年の雑誌創刊時から利用してきた「はてなダイアリー」(http://d.hatena.ne.jp/richeamateur/)がまもなくサービスを終了させるということで、このブログを「はてなブログ」(https://richeamateur.hatenablog.jp/)に移転した(というか移転するまえに元のサイトで移転の予告をすべきだったかもしれない)。去年刊行した号外『建築と日常の文章』()で、このブログについては一応のまとめをしていたので、ちょうどよい切り替えのタイミングだった気もする。しかしそこまで心機一転というふうでもなく、これまでの2000件超の記事もほぼそのままこちらに移行し、以前の「はてなダイアリー」の個々の記事へのリンクはダイレクトで「はてなブログ」の該当するページに飛ぶようになっている(だから以前のサイトにはもうアクセスできない)。
新サイトはスマホ版はこれまでよりだいぶ見やすくなったようだけど、パソコン版はまだなんとなく違和感がある。しばらく経っても違和感が消えなければ、できる範囲でデザインの調整を試みてみたい。以前のサイトでは写真はオリジナルのサイズで大きく掲載されるように設定していたのが、現状ではテキストと同じ幅に固定されるようになってしまっている。またテキストは、段落と段落の間にあったウェブ特有の若干の空きがなくなっている。そのへんが特に気にかかる。

山下敦弘・今泉力哉『午前3時の無法地帯』(2013)、山下敦弘『味園ユニバース』(2015)、同『オーバー・フェンス』(2016)をDVDで観た。『オーバー・フェンス』は、三宅唱『きみの鳥はうたえる』(10月1日)と同じく佐藤泰志(1949-1990)の小説が原作。どちらの映画もそれぞれの監督らしい作品になっているとともに、同じ原作者による作品であることが観ていて確かに察せられる。若さをめぐる儚い空気感というか。
ただ、『きみの鳥はうたえる』を観た後だと、『オーバー・フェンス』は登場人物が今一その作品世界に息づいていないような気もしてしまった。主役のオダギリジョーの浮き世離れした感じはそもそもミスキャストのように思えるし(義理の弟役だった吉岡睦雄のような人を主役にして映画を成り立たせられたら、本当に傑作になったかもしれない)、蒼井優は大女優らしい貫禄すら感じさせて、それはそれで魅力的だとはいえ、作品全体のあり方と調和していたかというとどうかと思う(蒼井優に関しては演技や演出というより脚本レベルの問題かもしれない)。『苦役列車』(2012)の森山未來や『もらとりあむタマ子』(2013)の前田敦子、今回観た『午前3時の無法地帯』の本田翼、『味園ユニバース』の渋谷すばるなど、山下敦弘は個々の役者の特性を引きだし、有機的・全一的な作品として昇華させることに長けた監督だろうし、この作品も他の人物たちの生かし方はみなよいと思うのだけど(『オーバー・フェンス』も『きみの鳥はうたえる』も、脇役にすぎない嫌なやつを嫌なやつとして生々しく描きつつ、その存在を認めて居場所を与える)、主役のふたりに妙に引っかかってしまった。
とはいえ今回観た3作のなかでは『オーバー・フェンス』がいちばん見応えがあると言えると思う。『味園ユニバース』も悪くはなかったし(物語がやや大味だった)、『午前3時の無法地帯』は共同監督であるにしても、3作のうち最も山下敦弘らしい作品と言えるかもしれない(すこし長すぎると思ったら、そもそも全12話のウェブドラマだったらしい)。


東京都葛西臨海水族園12月24日)の6年後に竣工した葛西臨海公園展望広場レストハウス(設計=谷口吉生、1995年竣工)。駅からのアプローチではこちらのほうが先に軸線上に見えてくる。建物の向こう側はまだ200メートルくらい公園の陸地が続いてから東京湾に至るのだけど、建物の手前がなだらかな上り坂、その奥は逆に下っていることで、向こう側の景色が予想できず、この建物があたかも領域を区切る透明な境界線であるかのように感じられる。その目を見張るほどの透明感・軽快感は、単にガラス張りだからというだけでなく、建物のプロポーションや部材の構成方法とも関係しているのかもしれない。
ただ、そうした外観の魅力の一方で、内部に入ってみると白色系の仕上げに部分的な汚れや痛みが多く目についた。これは東京都の管理の問題でもあるにせよ、敷地は海を臨む吹きさらしのような場所だし、設計者はすでにこの建物以前に水族館のほうを手がけてもいたのだから、設計の段階でメンテナンスの大変さは十分予想できただろうとも思われる。ガラス張りの温室のようなつくりなので、夏の暑さもかなり厳しい気がする。そのあたりの大胆な割り切りをどう捉えるか。
以下、写真4点。谷口吉生さんの建築は、水平垂直のいわゆる建築写真向きだと思う。アマチュアだとボロが出やすい(そう考えると谷口吉郎の建築は、杓子定規の水平垂直だとその空間の質を捉え損ねるようなものかもしれない)。

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葛西臨海公園駅のホームから見た東京都葛西臨海水族園(設計=谷口吉生、1989年竣工)。じつはこれまで行ったことがなかったのだけど、谷口父子に対する最近の関心の高まりに加え、すこし前に建て替えの可能性が報道されたこともあり、クリスマス・イブの日に訪れてみた。今年初め(1月20日)に行った東京国立博物館法隆寺宝物館(設計=谷口吉生、1999年竣工)は、建築自体は極めて高い完成度でできているものの、それが上野という場所を訪れるさまざまな文化的属性の人たちの衣服や身体とどう調和するかという点に疑問があったのだけど、この水族館はそもそもがより大衆向けの用途であることも関係してか、そういう疑問は抱かせない。建築的にいちばんの見せ場であるガラスのドームとそこまでのアプローチは、むしろ建築の古典的・超越的なありようが現代の大衆性をしっかりと受け止めているように感じられ、まったく今さらながら見事なものだと思った。水平性の強い低いゲートをくぐって軸線上の幾何学形態に至るという構成は、たまたまつい先日(8月31日)訪れたという僕の先入観も大きく作用しているだろうけど、谷口吉郎設計の千鳥ケ淵戦没者墓苑(1959年竣工)を思い起こさせる。以下写真4点。

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昨日はその後、名古屋のガレリア フィナルテで「岡﨑乾二郎展」(〜12/22)を観た。充実した作品群。と思うけれど、タイプとしてはこれまでの作品と同型なので、今回の出展作について取り立ててなにかを言葉にするというのが難しい。19時の閉廊まで滞在。東京への帰り際にふと思い立ち、はじめてジュンク堂書店ロフト名古屋店を訪れた。創刊以来お世話になっている担当の方に挨拶できればと思ったのだけど、聞けば先月池袋本店に異動されたらしい。新刊の『建築と日常の文章』()をはじめ、バックナンバーも並べてくださっていた。


ひさしぶりの出張(日帰り)で、愛知県常滑市INAXライブミュージアム)と岐阜県の多治見市モザイクタイルミュージアム)をハシゴした。県を跨いではいるものの、それぞれの最寄り駅同士は名古屋を挟んで電車で80分程度の距離。どちらもタイルを扱うミュージアムとして、ちょうど2館をめぐるスタンプラリーも行われていた。以下、写真各2点。

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恵文社一乗寺店オンラインショップの『建築と日常の文章』の商品ページ。

いつもながら丁寧に出版物を読み込んだ上での主体的な紹介文で、ありがたくも恐れ入ります。リンク先で関連商品として挙げられている『建築と日常』No.5、『建築と日常の写真』、『建築のポートレート』のページもぜひ合わせてご覧ください。



昨日、展覧会を観る前に散歩しながら撮った写真。どちらも多少の角度補正+トリミングあり。
たとえば上の写真の場所は、現実の散歩の体験のなかでは背景の鉄塔や右手のピンク色の扉の貸倉庫が強い存在感を持っていた。そのことがシャッターを切る要因になっていると思う。しかしこうして写真で見てみると、それらの存在感は薄らぎ、画面の中央にある平屋の民家がまさに中心的な存在になっている。プロポーションやスケールや構成になにかしら惹かれるものがある住宅だけれども、写真を撮ったときにはそうしたところまで具体的に意識はしていなかった。写真に撮ることで、そのような在り方が詳しく見えてきた。
こういったことが「カメラの等価性」というものの作用だろうか。しかし一方で、この場所ではむしろ鉄塔や貸倉庫の存在感をありのままに捉えたほうが眼差しとしては自然でニュートラルのような気もするし、それをせずに民家を中心に据えた客観的な構図をつくったのは僕の好みというか手癖ないし作為のようにも思われる。そういうことを考えると、そもそも世界のなかでまったく等価ではなく存在するはずの無数の事物に対し、それらを等価に捉えるということ自体がどういうことなのか分からなくなる。少なくともそこでの「等価」は、世界あるいは事物の側にある基準ではなく、やはりその時々の人間の側の基準に基づいているのではないかと思う。たとえば「市井の民家を建築家の作品と等価に撮る」だとか、「建築とそこにいる人々を等価に撮る」だとか、そういうことならば感覚的に納得しうるのだけど、あらゆるものを等価に撮るというのはよく分からない。

墨田区向島のTABULAEで、散策研究会 Cadavre K「徘徊する観察者 Vacant Lot」展を観た(本日まで)。日常的な街の景色を写した写真と動画の展示。こう言うととても無礼なようだけど、「僕が撮りそうな写真だな」と素朴に思った。ただ、作家のテキストを読むと東日本大震災への問題意識を基点にしているようなので、スタンスとしては大きく異なるのだろう。

散策またその写真記録は、当初、アートとしてはまったく考えられてはいなかった。むしろ、3.11の衝撃は、自然災害においてのみならず、政治的・文化的にもアートの「創造」的な「表現」による「生産」を不可能にしたように思えたからです。したがって、今回の展示においても、それへの疑いが根底にはあることを記しておきます。

テキストでは続けて、「地形・植生・気象・家屋の全般を観察対象にするということは、いかなる些細な事象も見落とすことなく全体を知覚・認識するということ。世界のすべてを対象にするということです」と書かれている。しかし世界のすべてを対象化し、いかなる些細な事象も記録し尽くそうとするような態度は、それこそこの震災の前提にあるような近代に特徴的な態度と言えるのではないだろうか。作品そのものには確かに面白いところもあると思うのだけど、このあたりのコンセプトが僕にはよく理解できなかった。「カメラの眼は原理的にいって、ヒトの眼と違い、“すべてのものを等価なもの”として扱うことができた」という言葉もそうで、たとえばある街並みの写真を撮ったとき、そこで「地形」や「植生」や「気象」や「家屋」が本当に等価に写っているとは僕には思えない。視覚の特権化もまた近代に特徴的なことの一つではないかと思う。


アトリエコ設計のO邸を見学。奥行きの深い敷地で平面を縦長に2分割し、一方を開放的に、もう一方を閉鎖的につくっている。開放的なほうは奥に行くにつれ幅がすぼまり、逆に閉鎖的なほうは幅が広がっていくことで、住宅としての用途に対応している。幾何学的な強い構成と生活のイメージとの重ね合わせは以前見学したH邸に通じる(3月3日)。
見学後、そのまま歩いて駒込のときの忘れものへ行き、「佐藤研吾展──囲いこみとお節介」を観た(〜12/22)。ギャラリーが入る建物は阿部勤さんの設計による住宅建築(1994年竣工)。複数の木製のオブジェはそれぞれピンホールカメラの機能を持っており、それらで撮影された写真が合わせて展示されている。個々のオブジェには物体としての魅力があり、さらにそれが原始的ながら撮影機能を持つ道具であることにも惹かれるものがある。しかし一方で、その物体が様々なバリエーションで複数存在することは、その個々の道具性を弱め、あくまで作品然とした表情を前面に見せることになっている気がする。もし個々の物体がより純粋な道具だったなら、おそらくそこまでのバリエーションは必要ないだろう。むしろ作者はまず一つ一つの道具の個性を実際に使用するなかで知っていき、それぞれの道具との固有の関係を築いていく必要があるはずだ。もちろん一概に「道具」だと良くて「作品」だと駄目だということはないわけだけど、こうした道具性と作品性の二元論的な関係が問題になるあたりは、佐藤さんの先生である石山修武さんの仕事を思い起こさせる。


江戸東京たてもの園のその他の写真。前川國男邸はおそらくたてもの園のなかで最も「建築作品」としての密度が高いものだと思うけど、だから写真もその作品性に対峙するかたちで撮りやすい(実際によい写真が撮れるかどうかは別にして)。しかし他の多くの建物では、往時を再現して演出された状態をそのままフェイクと感じさせずに雰囲気よく切り取ろうとするような意識が働いて、そのことに自分で気がつくと写真を撮る気が薄れてしまう。以下2点。

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