ここしばらくの間で、小津安二郎の『晩春』(1949)、『麥秋』(1951)、『東京物語』(1953)、『彼岸花』(1958)、『お早よう』(1959)、『秋日和』(1960)、『秋刀魚の味』(1962)を観た。どれもすばらしく、それぞれに漲っている感じがする。『彼岸花』以降の喜劇性が強いカラー作品も、その良さをあらためて確かめられた。バーのシーンなどを見ると、カウリスマキの映画への影響の大きさを感じたりもする。
この前(8月5日ホン・サンス小津安二郎の共通性みたいなことを書いたけれど(カウリスマキは小津への敬意を公に語っているものの(→YouTube)、ホン・サンスに小津についての発言があるのかどうかは知らない)、『彼岸花』の佐分利信笠智衆の相似的な関係(どちらも年頃の娘を心配する男親)や後半の「トリック」の辺りに、人間の形式性に基づくホン・サンス的な反復(普遍性)とズレ(固有性)の絶妙な響き合いが感じられる。
また、『彼岸花』が一つの作品内で反復とズレを含むとすると、『秋日和』はその『彼岸花』と対になって反復とズレがあり(例えば同級生3人が料亭の女将をからかうシーンや会社の佐分利信の部屋にいきなり佐田啓二が入ってくるシーン)、さらにそれとまた別のレベルで『晩春』とも反復とズレがある(1920年生まれの原節子が『晩春』では片親から嫁ぐ一人娘を演じ、11年後の『秋日和』では一人娘を嫁がせる片親を演じている)。言ってみれば前者は人間の共時的な同質性、後者は通時的な同質性を表現していると思う。ホン・サンスの映画も「どの作品も大体同じ」系(2017年2月6日)だとはいえ、こうした作品間の意図的な関係づけは今のところ特に感じられない。一つの作品を超えて要素を組み立てる小津の抽象的な思考と、それがもたらす作品の広がりが際立っている。