昨日は岡崎乾二郎さんが設計した住宅「Blockhouse Sunagawa」を見学しに立川まで行った。公式に発表されている写真はこちらから


全体は基本的に3つの機能空間のブロックによって構成されている。それはレコードコレクターである施主のためのオーディオルーム+書斎(茶:1階)と、水回り+納戸(黄土色:2階)と、キッチン+納戸+寝室(白:1階+1.5階+2階)で、それら3つを組み合わせて覆いを被せたあいだに、パブリック・リビング(1階)、プライヴェート・リビング(2階、茶色の上)、ユーティリティ(2階、白と黄土色のあいだ)がある。

空間構成や窓の開け方には確かにパズル的なうまさがあるけど、いくつかのヴォリュームを組み合わせたり、入れ子にしたりするのは、すでに近代以降の住宅で数多く試みられてきたことでもある。この住宅で特徴的なのは、そうした幾何学的なヴォリュームの操作というより、あくまで実体としてのブロックの組み合わせによってできていることだと思う。つまり、空間と目に見える表面との関係を考えさせられる。


アプローチ。外観の下層はレンガタイル、上層左はソフトリシン、右は杉板の縦羽目。


1階パブリック・リビング。床は岡崎さんが1枚1枚釉薬を塗って作られたタイル(キッチンと2階のトイレにもそれぞれ色やパターンを変えた自作のタイルが敷かれている)。外装のレンガタイルが内部にも回っている。

実際これだけ多様な表面を持つ住宅はそうないだろう。岡崎さんの手による床のタイルはもちろん、その他にも各種のタイル、クロス、板材、建具、手摺りなど材質や色は様々で、おそらくまともな現代建築家ならば使うのが躊躇われてしまうようなものも少なくない。正直なところ僕も最初にこの住宅の外観が視界に入った時は「?」と思った。表層的で安っぽく見えてしまったのだけど、実際に住宅を体験してみると、それらの表面はそれぞれの空間との関係のなかで豊かに現れてくるのだった。
考えてみると、同じことはこの住宅を訪れる40分ほどまえ、立川駅の近くにある岡崎さんの野外彫刻を見に寄った時に体験していた。それは青や紫、ピンク、緑などの波打ったフェンスのなかに何種類かの植物が植わっているような作品で、パッと見にはカラフルな金属と植物とが調和しているようには思えない。しかし、空間体験として色やかたちやものの組成を総合的に捉えようとすると、生とでもいうようなものが鮮やかに感じられる。その経験の構造を具体的に説明することは僕にはできないけど、Blockhouse Sunagawaの多様な表面も、平面上の美的な操作というより、彫刻的なセンスのなかで捉えられるべきではあるだろう*1


岡崎乾二郎《Mount Ida ─ イーデーの山(少年パリスはまだ羊飼いをしている)》1994
http://www.panoramio.com/photo/7434652
近くに《ヘルメスの耳朶、くるぶし、踵(すでにここにはいない)。》(2009)もある。

昨日はあいにくの雨だったけど、見学者は僕がいたあいだも大勢訪れていた。岡崎さんのご両親も訪れた。岡崎さんが「まったくしょうがねえなあ」という割には楽しげなそぶりでご両親を案内して回って、キッチンの床は食べ物をこぼしても掃除しやすいようにタイルにしてあるとか、この納戸は天井高が1.4メートル以下なので延べ床面積に含まれないとか、洗濯物を干しに出やすいような部屋の配置にしてあるとか、リビングの床はお寺の床と同じで幅が広くて柔らかい板を使っているので座りやすいとか、一般に建築家が設計する住宅よりも坪単価を抑えたとか、そんな説明をする様は感動的とさえ言っていいくらいのものだった。
それはなにも難解な文章をものす高名な現代アーティストの意外に世俗的な横顔が垣間見れたという話ではなく、そうした日常的な現実に真摯に対応してこそ豊かな作品が成立しうる、その事実にばったり出くわしたということだ。建築は絵画や彫刻などに比べて、法規、経済、慣習、身体など、現実の制約が多い。しかし、程度や質の違いこそあれ現実の制約は建築に特権的なことではなく(それぞれの表現メディアの違いも興味深いけれども)、岡崎さんの作品は、絵画でも彫刻でも、現実との対応のなかで組織され、豊かな経験を生成させようとするものであると思う。そうした作品のあり方については『ルネサンス 経験の条件』(筑摩書房、2001)でもブルネレスキの建築を中心にして他の表現ジャンルも題材にしながら書かれていた。あらゆるジャンルでの制作に通底して意識しているのは、定量的・観念的な時間概念や空間概念を、作品の経験のなかで再構成し、またそれによって主体も再構成されることだ、というのをご本人が言われていた気がする。

ルネサンス 経験の条件

ルネサンス 経験の条件

岡崎さんによれば、Blockhouse Sunagawaでは各ブロックを明快に区切り、そのそれぞれで経験される空間や時間の質を大きく変えることが意図されたという。そうした場所の多様性は、岡崎さんの絵画を観る経験にも似て、主体にある種の自由さを感得させるだろう。一方で、その時それぞれの場の質の差異は、主体にとっての制約としても現れていると言える。主体は各ブロックに依存して再構成されるのだから。もちろんそれを否定的に言うつもりはなく、岡崎さんの作品はそうした経験の自由さと制約との関係がひとつの鍵になっているように思う。そこでの制約は自由さと対立しない。
そしてそれは岡崎さんの制作のプロセスにも言えそうで、例えばBlockhouse Sunagawaではもうひとつ土地の歴史的な履歴が語られているけれど*2、その物語はたぶんあまり本気に受け取らなくてもいい。重要なのは物語自体ではなく、その物語が建物の構成と配置を決める制約のひとつとして機能していることだろう。上で書いたような世俗的な制約や施主の個別性に基づく制約、そしてこういった歴史的な制約を自身に重ねて課していくことで、むしろ世俗にも施主にも歴史にも縛られず、それぞれの制約を相対化するような自由さが得られる、という構図があるように思える*3

*1:この住宅を一般的な建築雑誌に建築雑誌の文法で載せようとすると、こういった質は極めて伝わりにくい気がする。

*2:ブロックハウスという名称はそれが要塞であることも意味している。住宅の敷地は砂川事件(1957)の舞台となった米軍立川基地(現・陸上自衛隊立川駐屯地)に近く、基地内にある南北軸に平行な滑走路のほぼ延長線上に位置している。Blockhouse Sunagawaの正方形の敷地は南北軸に沿っていないが、建物はその敷地形状に合わせるのではなく、数キロ離れた滑走路に正対するように角度が振られ、そこからの飛行を阻止するものの象徴として建てられたと説明される。

*3:これは『建築と日常』No.0で書いた忌野清志郎の振る舞いにも通じるかもしれない。忌野清志郎も自身を既成の形式に能動的に重ねていくことで、むしろそれぞれの形式から自由になろうとするようなところがあったと思う。例えば凡庸なロックスターは既成の形式を破壊しようとする、という形式に陥りやすいのに対して。