呉美保『そこのみにて光輝く』(2013)を家で観た。三宅唱『きみの鳥はうたえる』(2018年10月1日)、山下敦弘『オーバー・フェンス』(2018年12月29日)と同じく、佐藤泰志の小説が原作。知らない監督だったけど、調べたら山下敦弘と大学の同期らしい。佐藤泰志の小説を読んだことは相変わらずないものの、この映画も前掲2作と同じ小説家が書いた作品を元にしているということが確かに感じられる。物語自体が特に傑出しているという気はしないけれど、『オーバー・フェンス』のようなキャスティングのいびつさはなく、役者はそれぞれ好演していて、演出も的確なのだろうと思う。人間同士の関係やその場の空気がよく捉えられていると思った。函館の町の描写もたいへんよい。
佐藤泰志という人の小説はとりわけ映画化と相性がよいのだろうか(と書くと小説そのものは認めていないようだけど、小説が良かろうが悪かろうが小説の映画化がこれだけ連続して良い作品になっており、なおかつ独特のムードを通底させているということはなかなか珍しい気がする。特に成瀬巳喜男と林芙美子とか増村保造と谷崎潤一郎とか、特定の作家同士の結びつきではなく、それぞれが異なる監督の作品としては)。彼の小説を原作にした映画は4本あるらしく、こうなると初めて映画化された作品である熊切和嘉『海炭市叙景』(2010)も観たくなってくる。

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ひさしぶりにジュンク堂書店池袋本店を訪れた。しばらく新刊のない『建築と日常』を変わらず大きく扱ってくださっていて恐縮する。10年前、『建築と日常』の取引の相談に訪れた日のことが、せいぜい3年前くらいのことであるかのように感じられる。

仙台市青葉区八幡に新しくできる「曲線」という名前の書店に『建築と日常』各号を発送した。『建築と日常』の創刊以来お世話になっていた書店員の方が独立して始めようとするお店。築100年を超える古民家を店舗にし、絵画・写真・詩・文学をメインに和洋の古書も含めて棚づくりをしていくとのこと。9月9日開店。

去年のイベント(2018年5月19日)以来で《西大井のあな》を訪問。相変わらずこの住宅をめぐっては毀誉褒貶があるそうだけど、僕自身は良いとか悪いとか言う気持ちにあまりならない。そういう批評の対象にならない、もっとプライベートなものという感じがする。むしろそこにこそこの住宅の批評性があるのかもしれないけれども。

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昨日は台東区上野桜木の旧平櫛田中邸を見学した。近所の朝倉彫塑館(旧朝倉文夫邸)のような建物の作品性は強くないものの、増築を経た不定型で有機的な空間構成とこぢんまりしたスケール感が親しみ深い。平櫛田中(1872-1979)はこの住宅に50年ほど住み、99歳で大江宏設計の九十八叟院(2014年8月8日)に移り住んだというけれど、この旧宅を訪れてみると、大江宏の建築について言ったらしい「この家は岡倉天心先生か横山大観でなければ住みこなせない。わたしにはちょっと無理だな」()という言葉も妙に納得できる。

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昨日、Takuro Someya Contemporary Artへ行く途中、モノレールから撮った写真。いつも文学フリマの会場へ行くためにモノレールに乗るたび写真を撮りたいと思うのだけど、文学フリマのときは荷物が多すぎて、一眼レフを持っていく余裕がないのだった。都市をちょっと上から見下ろす視点にやはりなぜか惹かれる。

TERRADA Art Complexに移転したTakuro Someya Contemporary Artで、岡﨑乾二郎展を観た(〜8/24)。「ゼロ・サムネイル」シリーズの新作が中心。岡﨑さんのこのシリーズの展示を観るのはもう何回目だろうか。回ごとの変化を読み取る力はないけれど、10年以上前のシリーズ初期のものを思い浮かべると、作品の移り変わりを感じる。今回は下記のギャラリーHPでも掲載されている《考えなき情景》という作品にとくに目を引かれた。

Sawada Hashimura「参照の織物」展をプリズミックギャラリーで観た(〜8/23)。基本的に若手建築家の活動を紹介しているこのギャラリーにおいて、自分たちの設計作品をまったく出さない野心的な企画。いくつかの有名な建築における特定の部分の精巧な模型を制作し、その(模型自体ではなく)模型写真を主な展示物としている。ヴェンチューリの「難しい全体」という言葉をそれこそ「参照」しつつ、過去の建築の具体的な成り立ちに注目する態度には共感するし、実際の対象を選ぶセンスや見識の確かさも感じられ、展示には知的な刺激を受けもする。
一方、建築の設計者としての展示を依頼されただろうこの機会において、自身の設計の仕事から離れて、ここまで手が込んだことをするモチベーションがどの辺りにあるのか、会場に置かれたハンドアウト(これもずいぶん手が込んでいる)の文章を読んだ上でも、いまいち判然としなかった。有名建築の図面をトレースしたり模型を作ったりすることは、その建築ないし設計のあり方を追体験的に捉えるために建築家の習練として昔からされてきたことに違いないけれど、それならば建築の表面の色彩や素材感まで模型で具象的に再現する必要はないだろうし(必要ないというか、設計者による建築のトレースという行為の本質から離れてしまうような気がする)、その模型をわざわざ撮影して額装して見せる必要も見いだしにくい。また、ある建築の特定の部分の重要性を示すことに主眼を置くなら、やはり自作の模型+写真という形式の統一にこだわる必要はなく、それぞれの事例の性質によっては建築全体の平面図や断面図、あるいは矩計図などを柔軟に併置させることが目的に則してより有効な手段になってくるようにも思われる。建築のある部分を細密に模型化し、それをあえて写真作品として見せることで、なんらかの新鮮な感覚を観る人にもたらすことは期待できるとしても、この展覧会の極めて高い完成度が「作る」ことよりも「見せる」ことに重心をかけているように見えることが(「展覧会」としては好ましいことでもあると思うのと同時に)妙に引っかかってしまった。

テレビで放送していた、片渕須直『この世界の片隅に』(2016)を観た。3年前、映画館での公開時にも観た作品。そのときの日記では、「それぞれの要素が作品世界として全一的に統合されておらず(内的な秩序に根ざしておらず)」と批判しているけど(2016年12月11日)、今あらためて考えてみると、そもそもアニメ映画で作品世界の全一性を感じさせるというのはかなり困難なことかもしれない。アニメは実写と違って、ひとつひとつの場面をゼロから描いて立ち上げているため(かどうかは分からないが)、その描かれた場面以外(場面と場面のあいだ)の背景ないし媒体としての世界は、観客に実感させづらいという性質を持っているような気がする。僕が3年前にこの映画を批判したのは、具体的に言って例えば終盤、主人公が激高したり、「この世界の片隅に私を見つけてくれてありがとう」と言ったりする行為に、生きた人間のリアリティが感じられないというようなことからだった。そういう印象は今回も変わらない。

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引越元の区から速達で送ってもらって、ぎりぎりで受け取ることができた。選挙区は立憲民主党もしくは共産党、比例は山本太郎か…

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『建築と日常』No.3-4(2015)で取り上げた《4 episodes》(設計=atelier nishikata、2014年竣工)の取材記事「家族の50年、変わる暮らし、住み続ける家。」(取材・文=成合明子)が、『暮しの手帖』2019年6-7月号に掲載されていた。さすが『暮しの手帖』と思わせる充実した記事で、見開き掲載されている各階のスケッチ風アクソメ(改修前/改修後)も力作。その一方で、「西片の家」としてではなく《4 episodes》としての作品性は、むしろ『建築と日常』に掲載したシンプルな平面図や展開図のほうが伝わるのではないかという気がする。岡﨑乾二郎さんによる批評も含めて、これだけアプローチが異なる2誌の誌面が成り立つというのも、この住宅のもつ豊かさゆえなのだろう。

小堀哲夫さんによるレクチャー「創造と学びと空間」をJIA館で聴いた。日本建築家協会の「金曜の会」が主催したもの。前半がご自身の設計作品についてで、後半が旅行をして訪れた世界各地の歴史的な建築について。前後半は必ずしも連続的に語られるわけではなく、後半はほとんど建築愛好家というそぶりで、実測を含むスケッチをもとにそれぞれの建築に迫ろうとする態度が印象深かった。多くの人が指摘することだろうけど、建築史研究室(法政大学陣内研究室)と組織設計(久米設計)というふたつの出自が、よいかたちで活動の土壌になっている感じがした。

富田克也監督『典座 -TENZO-』(2019)を京橋テアトル試写室で観た。全国曹洞宗青年会からの依頼を受けて作られたという。空族の他の劇映画と似て、ドキュメンタリーとフィクションを掛け合わせたような作品だけど、これはドキュメンタリーに徹してもよかった気がする。

ここ最近、小津安二郎の『風の中の牝鷄』(1948)、『宗方姉妹』(1950)、『小早川家の秋』(1961)をDVDで観た。これで去年から今年にかけて、戦後の小津の監督作品、あるいはよく言われる「『晩春』(1949)以降」の作品をだいたい観たことになる(『浮草』(1959)は5年くらい前に観た()。戦後作品では『長屋紳士録』(1947)のみ学生の頃に観て以来観ていない)。
今回の3作はいずれもいわゆる「小津調」の定型的なところからはやや距離がある。とくに「『晩春』以降」ではない『風の中の牝鷄』は小津でなくても撮れそうな映画に思えたけれど(ひとつの真に迫る物語としては感動しうるものの、内容と形式の高度な響き合い、物語を超越した作品世界としての広がりや深みは感じにくい)、いずれも単体として良い映画には違いないし、形式として極めて限定されている小津の創作の微妙かつ確かな多面性を感じさせるという意味でも興味深い作品だった。
小津に関してはなんとなくその作品像・作家像が自分のなかに描けてきたので、たとえ純粋な「作品」として劣るものであっても、その自分のなかの暫定的な像と反響し、それを補完・更新・再編するものとして面白く受け取れる。むかし観たはずの戦前の作品と、これまでしっかりと読んだことがなかった小津自身の言葉についても知りたい気持ちが強くなってきた。