NOBODY 47

三宅唱きみの鳥はうたえる』(2018)を新宿武蔵野館で観た。その後、渋谷に移動してすこし時間を潰してから、ユーロスペース下階のユーロライブにて、濱口竜介三宅唱の両監督によるトークを聴いた。それぞれの監督最新作である『寝ても覚めても』(9月27日)と『きみの鳥はうたえる』を特集した『NOBODY』47号(特集:映画の絶対的な新しさのために)の発売記念トークイベントとして開催されたもので、同誌編集長の渡辺進也さんと編集部の結城秀勇さんも聞き手として登壇。お客さんもたくさん入っていたし、『NOBODY』がずっと追ってきた若い監督たちとともに確かな場を築いているのを感じ、部外者ながら頼もしい気持ちになった。結城さんは『映画空間400選』(INAX出版、2011年)()の共編者で、渡辺さんもその本で執筆してもらっている。
きみの鳥はうたえる』は傑作と言っていいのではないかと思う。以前(2012年9月11日)同じ三宅監督の『Playback』(2012)を観たときには、(若いのに)すばらしい技術と完成度だと思いつつも、形式主義的な度合いの強さに引っかかったのだけど、今回の作品ではそのショットや構成の確かさとともに、生きた人間、生きた世界が見事に描かれていた。三角関係の若者たちの熱っぽさや儚さを即興的に生き生きと捉える一方、それ以外の登場人物も含む多層化した人間関係をすぐれたバランス感覚で動的に成り立たせている。それぞれの人物は記号的にキャラクターを固定されることはなく、なかば宙吊りの存在として扱われ、人間関係の網の目のなか異なるシチュエーションごとに様々な様相を見せる。その辺りのことが生きた人間や生きた世界を感じさせる土台になっているのだと思う。
また、『寝ても覚めても』の麦と近いといえば近いような、何を考えているのか掴めない無頼漢っぽいキャラクターがこの映画にもいて、彼が暴力を振るうシーンは(どちらかというと僕自身はそこで殴られてしまうほうのキャラクターに近いせいもあるのか)ああ嫌だなあという感じがなまなましくしたのだけど、その陰惨なシーン以降、むしろ彼は揺れうごく人間の奥行きを積極的に見せはじめ、殴られたほうも殴られたほうで最終的には映画としてその存在を救うような見え方の調整がなされる。こういった映画のあり方は、単に映画のなかで人間がリアルに生きているというだけでなく(あるいはもちろん物語の展開の都合で人間がコントロールされているというのでもなく)、人間というものに対する作り手の思想がうかがえる気がして好感を持った。