瀬々敬久『菊とギロチン』(2018)をインターネットで観た。イデオロギーが強い。「こういう映画が作りたい」という理想形はひしひしと伝わってくるものの(かつてのATGのような時代物というか)、実際がそれに追いついていない。この時代のこういう人たちはこういう表情でこういう言葉を口にしたりしない、というようなリアリティの欠如を感じさせる。ある作品においてイデオロギーが強いこと自体に問題があるとは思わないけれど(時にはそれが力にもなるだろう)、イデオロギーと作品の実体とにずれがあると、観る者にとってはそのずれがことさら意識にまとわりついてしまう気がする。そしてこの作品の場合、あたかもそのずれを埋めるかのようにして、作品世界に内在しているべき原理みたいなものと関わりなく、各々の部分が過激にどぎつくなっていっているという印象を受けた。


昨日の帰りの車窓からの眺め。甲府駅を通過したところで、《山梨文化会館》(設計=丹下健三、1966年竣工)が見えると思ってiPhoneで撮影した。客観的に見てまったく取るに足らない映像だとは思うものの、動画を撮るのに慣れていないせいもあってか、自分にとっては妙に新鮮に感じられる。電車がホームに滑り込むとか、滑り出すとか、慣用句としてよく言われるけれど、そういう印象が現実の体験よりも強い。漠然とした空間的・時間的広がりをもつ高次元の現実の体験が、2次元のフレームで区切られ、ある種の抽象として体験されるためだろうか。その抽象化の過程で、おそらく音(車内放送)の存在も相対的に現実の体験より強まっていて、電車内の空間/電車外の空間/音、という3つに対する知覚のバランスが変化し、そのことも映像体験の新鮮さに繋がっている気がする。

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『ザ・藤森照信』(エクスナレッジ、2006年)の取材以来で、山梨県の清春芸術村を訪れた。前に来たときには藤森さんの《茶室 徹》(2006年)以外はほとんど観る余裕がなかったのだけど(それは他の建物への関心が低かったということでもあったと思う)、今回は多くの建物をしっかり観ることができた。たぶんこの十数年で僕の建築観や歴史観もずいぶん変わったはずで、以前はなんとなくアナクロに見えていたギュスターヴ・エッフェル設計の《ラ・リューシュ》(1900/1981年)も、この日本の山あいの町にいきなりそれを持ってくるというところにシュルレアリスム的なただならないものを感じる(上写真参照。移築ではなく再建)。《ラ・リューシュ》は今も現役でアーティストの滞在型アトリエとして使われていて、その影響もあってか、往時の文化の雰囲気を漂わせている。階段室を中心にした放射型の全体構成やそれに基づく各個室は、こぢんまりしたほどよいスケールであり、形式的な空間が古臭くなくみずみずしい。
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谷口吉生の初期作品である《清春白樺美術館》(1983年)もすばらしかった。内部は起伏に富んでさまざまな場がつくられていて、その後の超越的で極度に洗練された作品にはない生き生きとした不純さが感じられる。
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もともと基本計画には谷口吉郎(1979年没)が関わっていたようだけど、展示されていた初期の模型写真らしきものがその当時の案だろうか(下掲)。今よりも全体の幾何学性が強い。現状の《ラ・リューシュ》のいくぶんぶっきらぼうな配置や《清春白樺美術館》の相対化/複合化された軸線は、この初期案の名残なのかもしれない。
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以下、写真3点。

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電車に乗ってぼんやりしていると、夢をもつことの大切さを若者に説くような広告が目に入った。新年度というせいもあるのかもしれない。その広告自体の浅はかさはともかく、「夢をもつことの大切さ」という一般に信じられている観念についても、全否定したいとまでは思わないけれど妙に引っかかってしまう。「明日に頼らず暮らせればいい」(佐藤伸治)とか、「人類が最後にかかるのは、希望という病気である」(サン=テグジュペリ)とかいう言葉に共感するためだろうと思う。たとえば「夢をもつことの大切さ」よりも「理想をもつことの大切さ」のほうがぴんとくる。

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鍋を洗っていたら取っ手が折れた。もともと実家にあった鍋だから、もう何年使われたか分からない。小ぶりで薄くて使いやすかった。捨てたら無くなるので、せめて遺影のつもりでここに残しておきたい。

《から傘の家》(設計=篠原一男、1961年竣工)を見学。写真撮影は内外とも禁止(下村純一撮影で『藤森照信の原・現代住宅再見』(TOTO出版、2002年)に載っている写真と、今もとくに雰囲気は変わらない)。よい建築には違いないが、言葉で捉えようとすると難しい。よく言われるように幾何学性が強いと言えば強いけれども、それほどでもないと言えばそうも言えそうな気がするし、伝統性が強いと言えば強いけれども、それほどでもないと言えばそうも言えそうな気がするし、閉鎖性が強いと言えば強いけれども、それほどでもないと言えばそうも言えそうな気がする(たとえば上記の本で藤森さんは、日本近代建築史の文脈でこの住宅の「内向性」を特筆しているけれど、実際に現代の一般的な住宅と比べて内向的あるいは窮屈で息苦しいという印象はない)。なにを基準にするかで相対的な意味合いが変わってくる。ということはつまり、それらの高度な次元でのバランスに秀でているということだろうか。

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昨日たまたま通りすがりに目にした《カトリック築地教会》(設計=ジロジアス神父+石川音次郎、1927年竣工)。重機が入って大がかりな工事がされているようだったけど、聞けば解体ではなく改修であるらしい。藤森さんの本で知って学生時代に観に行ったギリシア神殿風の木造建築。当時は築70年あまりだったのが、今はもう築90年あまりになっている。

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《上小沢邸》(設計=広瀬鎌二、1959年竣工、改修設計=神保哲夫)を見学。解体を控えた最後の見学会だという。この建物の概要や改修の経緯については以下のサイトに詳しい。

見学した印象としては、時代性は感じるけれども思想性は感じないというか、例えば同時期の清家清の住宅と比べて作り手の気配をうかがわせるということがなかったのだけど、後日、坂本先生との雑談でその話をしたところ、坂本先生は近年の焼肉屋時代に初めて訪れ、強い精神性を感じられたという(清家清との比較については定かでない)。僭越ながら僕は坂本先生も僕の印象に共感してくださると思っていたので、その感想は意外だった。先生の話しぶりから察しても、たぶん僕の観る目の浅さということだと思うけれど、あらためて建物を観てみたいと思ったところで、もう実物を訪れることはできない。

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久しぶりにネットオークションを利用した。谷口吉郎『清らかな意匠』(朝日新聞社、1948年)。刊行当時の定価が170円だったものを2000円で落札。著者自身による装幀。カバーがかなり傷んでいるので、うまくグラシン紙でも巻きたいところ。
同じく絶版の『谷口吉郎作品集』(淡交社、1981年)は、今年夏の「谷口吉郎・吉生記念 金沢建築館」()の開館に際して、淡交社から新版が出版されるらしい()。去年、『雪あかり日記/せせらぎ日記』(中公文庫、2015年)の書評(2018年10月20日)を書くために図書館で借りて目を通した『谷口吉郎著作集』(全5巻、淡交社、1981年)も、本当なら手元に置いて、じっくり読み込んでみたい。

先月、柴崎友香『公園へ行かないか? 火曜日に』(新潮社、2018年)を読んで、「一般的にカテゴライズするならエッセイの類いになる内容だろう」と書いたけれど(2月3日)、この作品がエッセイではなく小説とされていることについて、作者の柴崎さん自身の発言があった。

紀行文やエッセイと思って読んでもらっても全然構わないんですけど、自分としては小説という形で書きたいというか、小説を書くという経験の中で考えたい。その回路で物事を考えたかったというのはあります。

  • 対談=柴崎友香・滝口悠生「エモーショナルな言語を探して」『新潮』2018年11月号

柴崎さんが言う「小説の回路」がどういうものなのか、はっきりとは分からないけれど、たしかに柴崎さんの他の「エッセイ」と比べてみると(じつは柴崎さんの「エッセイ」は「小説」ほど読んでいない)、『公園へ行かないか? 火曜日に』は異質であるかもしれない。ただ一方で、下のような言葉でかたどられている柴崎さんにとっての「小説」は、僕が認識している「essai(試み)」のあり方と、必ずしも相反しない気もする。

でも、小説かエッセイかで何がいちばん違うのかと言われたら、結局自分が「これが小説だ」と思って書くかどうかで、それはつまり、考える回路が違うということなんですよね。
 それと私の場合、エッセイは誰にこの話をしてるのかという対象がある程度はっきりしていて、それを読む人にちゃんとわかるように説明するみたいな気持ちがあるんですが、小説はそういうのとはまたちょっと違って、もっと抽象的な「誰か」に向かって話している感じなんですよね。そこが違う。

 そもそも私は、自分の外のことを書きたいんです。自分自身の内面を表現したいという気持ちはなくて、自分の外側の面白いことや興味があることを小説に書きたいと思うタイプなので、場所や体験の面白さの方が優先されるのかもしれないです。それに比べたら、自分のことかどうかっていうのは二の次だったのかも。

 自分自身のことは材料なんです。表現する目的とかではなくて、自分が書きたい何かにとっての材料として自分がそこにあるので、それを使って書くという感覚に近いのかなと思います。さっきの小説とエッセイの違いという話とも関係するんですけど、架空のことを書いたらフィクションで、事実だったらノンフィクションというわけではないですよね。結構そこで区別されたりもするんですが、本当はそうではなくて、フィクションはフィクションの回路や想像の仕方で書いていることが重要であって、事実かどうかが境目ではない。
 もちろん明快に分けて説明できるわけじゃないから、小説とは何なのかは書きながらずっと考えていることではあるんですけど、今まである程度書き続けてきた中で、フィクションにとってもとになるのが事実や実体験かどうかはまた別の問題だっていう気持ちが、私の中では強くなってきています。

進歩が抗し難い力を持つと考えた者は左翼に属した。右翼に属したのは、それに対して慎重であるよう忠告した人々で、自ら保守派と名乗ったが、彼らの敵対者たちは彼らのことを反動と呼んだ。誠に残念なことに、われわれは、政治そのものにおけるこの単純な図式が、多くの状況の複雑な現実を歪曲し、誤らせたのを体験してきた。(pp.1-2)

エルンスト・H・ゴンブリッチ『芸術と進歩──進歩理念とその美術への影響』(下村耕史・後藤新治・浦上雅司訳、中央公論美術出版、1991年、原著1978年)を読んだ。この高名な美術史家の著作はほとんど読んだことがないのだけど、おそらく彼自身は「進歩が抗し難い力を持つと考えることに対して慎重であるよう忠告した人」であり、単なる学習のための読書という以上に思想として共感できる気がする(よく知られている『美術の物語(美術の歩み)』も読んではいないけれど、図書館で前書きに目を通しただけで信頼できる人だと思った)。
この本で主に彫刻と絵画を通して論じられている芸術と進歩理念の関係は、建築の分野で考えても興味深い変奏を見せるかもしれない。というか僕が知らないだけで、すでに書かれていてもごく当然のようにさえ思われる。個人作家の作品歴という枠組みで見れば、『建築家・坂本一成の世界』(LIXIL出版、2016年)で各作品の並べ方について考えていたこと(時系列という一般的な形式を採用しつつも、その形式がまとう線的な進歩史観をいかに相対化するか)にも響いてくる(2016年10月17日)。既成事実化された「歴史」に対する批判意識は、近年の岡﨑乾二郎さんの態度にも通じるかもしれない。以下、抜粋メモ。

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法政大学で開かれたシンポジウム「建築デザインにおける社会性を巡って」を聴いた。日本建築学会の建築論・建築意匠小委員会による企画で、パネリストは坂本一成・妹島和世・ヨコミゾマコト・青井哲人の4氏。告知の段階でテーマとメンバーの並びを見たときから多少予想はできたけれど、せっかくの豪華ラインナップも、シンポジウムのデザインに確たるヴィジョンがなくてもったいない。社会性というテーマを掲げているのに、企画としてそのテーマに対する切実さや真摯さや執念が感じられず、むしろイベント自体に社会性が欠けているという印象だった。
たとえば坂本先生の発表では「現代の行きすぎた社会性が建築を施設化させる」という批判が根幹にあった。そしてその後に発表されたヨコミゾさんの作品は、坂本先生にとっておそらく「施設化した建築」の範疇にあるものだろう(ご本人に確認したわけではない)。しかし両者のそのような対立性・対比性はこのイベントではすくい取られず、明るみに出ない。登壇者それぞれが言う「社会性」という言葉は全体で明確な像を結ばないまま無為なずれを拡散させ、弛緩した時間が過ぎていく。
僕がこう書くからといってヨコミゾさんの作品が良くないということではない。ヨコミゾさんの作品にはヨコミゾさんの作品なりのリアリティや必然性があり、坂本先生の作品には坂本先生の作品なりのリアリティや必然性があるはずだ(妹島さんも同様)。だからそのお二人(お三方)それぞれの活動に十分な意義を見て登壇を依頼したというのなら、その場を設定した人たちは当日の議論を想定してそれ相応の準備や仕掛けをしてしかるべきだし(少なくとも坂本先生と妹島さんは、放っておいても勝手に議論を盛り上げてくれる「サービス精神旺盛な人」でないことは明らかだと思う)、それぞれの建築家の活動のあり方にもっと興味を示して、それらの差異や固有性を自ずと探求せずにはいられないというのが本当だろう(そこから現代における建築と社会の関係も浮かび上がってくるかもしれない)。にもかかわらず有料でこれだけの聴衆を集めておいて、そういった探求の意志をうかがわせないというのは一体どういうわけだろうか。既成領域としての「大学」や「学会」というものに対する不信感をただただ募らせる。
入場料代わりの資料代1500円で配布されたプリントの束(A4用紙14枚)は、別の集まりで別の三者が発表に際して使用したパワポデータのプリントアウトであり、今日のシンポジウムの資料になるようなものではない。またもしそれを読み込みたいと思っても、プレゼン用のパワポのコピーだけで三つの発表の内容を正しく把握することは不可能だし(むしろ誤解を誘発する)、もとより縮小して出力されているので(A4用紙1枚にパワポ6ページ分)、字が小さくてところどころ読めないようにさえなっている。そんなことを普通にしてしまえる辺りも、学問に向かう根本的な態度に疑念を抱かせる。帰宅後、今日のシンポジウムについて「刺激的」「白熱」「意義深い」といった言葉がSNSで発せられるのを見て、余計にやるせない気分になった。

テレビで放送していた上田慎一郎『カメラを止めるな!』(2017)を観た。90年代の矢口史靖やSABUを思わせるポップな作風は決して嫌いではないものの、アイデアを映画として成り立たせる完成度にいくぶん物足りなさを感じた。たまたまネットや深夜テレビで目にしたならけっこう感心してしまいそうだけど、ここまでヒットして話題になるのはどうかという気がする。知っている役者が一人もいない映画でもこれだけのことができるという希望のような気持ちと裏腹に。


今日の『東京新聞』夕刊で、古谷利裕さんが国立西洋美術館「ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代」展(〜5/19)のことを評している。古谷さんはすこし前にもブログでコーリン・ロウ&ロバート・スラツキーの「透明性──虚と実」(初出1963年)を参照しつつ、この展覧会について書かれていた。

これも古谷さんの画家としての知識と実感に根ざした文で、とても新鮮に感じられる(僕がル・コルビュジエの絵画をめぐる言説に無知だというせいもあるかもしれないが)。これまでル・コルビュジエの絵画には特に関心がなかったのだけど、コーリン・ロウを読み返して展覧会へ行ってみたくなった。

ここ最近、家で観た映画。マーク・L・レスター『処刑教室』(1982)、ティム・バートン『エド・ウッド』(1994)、サトウトシキ『団地の奥さん、同窓会に行く』(2004)、アナ・クラヴェル『クリープショー3』(2006)、ティム・バートン『ビッグ・アイズ』(2014)。いわゆるB級という感じの映画が多かったけど、『団地の奥さん、同窓会に行く』には何かしらぐっとくるものがあった。