先月、柴崎友香『公園へ行かないか? 火曜日に』(新潮社、2018年)を読んで、「一般的にカテゴライズするならエッセイの類いになる内容だろう」と書いたけれど(2月3日)、この作品がエッセイではなく小説とされていることについて、作者の柴崎さん自身の発言があった。

紀行文やエッセイと思って読んでもらっても全然構わないんですけど、自分としては小説という形で書きたいというか、小説を書くという経験の中で考えたい。その回路で物事を考えたかったというのはあります。

  • 対談=柴崎友香・滝口悠生「エモーショナルな言語を探して」『新潮』2018年11月号

柴崎さんが言う「小説の回路」がどういうものなのか、はっきりとは分からないけれど、たしかに柴崎さんの他の「エッセイ」と比べてみると(じつは柴崎さんの「エッセイ」は「小説」ほど読んでいない)、『公園へ行かないか? 火曜日に』は異質であるかもしれない。ただ一方で、下のような言葉でかたどられている柴崎さんにとっての「小説」は、僕が認識している「essai(試み)」のあり方と、必ずしも相反しない気もする。

でも、小説かエッセイかで何がいちばん違うのかと言われたら、結局自分が「これが小説だ」と思って書くかどうかで、それはつまり、考える回路が違うということなんですよね。
 それと私の場合、エッセイは誰にこの話をしてるのかという対象がある程度はっきりしていて、それを読む人にちゃんとわかるように説明するみたいな気持ちがあるんですが、小説はそういうのとはまたちょっと違って、もっと抽象的な「誰か」に向かって話している感じなんですよね。そこが違う。

 そもそも私は、自分の外のことを書きたいんです。自分自身の内面を表現したいという気持ちはなくて、自分の外側の面白いことや興味があることを小説に書きたいと思うタイプなので、場所や体験の面白さの方が優先されるのかもしれないです。それに比べたら、自分のことかどうかっていうのは二の次だったのかも。

 自分自身のことは材料なんです。表現する目的とかではなくて、自分が書きたい何かにとっての材料として自分がそこにあるので、それを使って書くという感覚に近いのかなと思います。さっきの小説とエッセイの違いという話とも関係するんですけど、架空のことを書いたらフィクションで、事実だったらノンフィクションというわけではないですよね。結構そこで区別されたりもするんですが、本当はそうではなくて、フィクションはフィクションの回路や想像の仕方で書いていることが重要であって、事実かどうかが境目ではない。
 もちろん明快に分けて説明できるわけじゃないから、小説とは何なのかは書きながらずっと考えていることではあるんですけど、今まである程度書き続けてきた中で、フィクションにとってもとになるのが事実や実体験かどうかはまた別の問題だっていう気持ちが、私の中では強くなってきています。