写真を撮りながら近所を散歩。上の写真はカメラを水平に構え、建物を垂直に捉えているけれど、すこし下に傾けたほうが、前方の道を下ろうとする運動性・身体性が表れてよかったかもしれない。もともと手前と奥で空間が多層化しているところが面白い風景だと思ってカメラを構えているので、もっと手前と奥の空間が拮抗するように撮れればよかった。今の写真だと奥のほうの空間性が勝っていて、手前の空間の存在感が薄くなっている。以下写真3点。

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写真を撮りながら近所を散歩。植物(だけ)の写真は造形センスが如実にさらけ出される感じがして、いつも心許ない。上の写真はかなりトリミングをして構図を整えたつもり。植物もよく撮るけど、建物や街の空間と比べて自分なりの視点を持っているわけではないし、見てすぐがっかりして削除してしまう場合が多い。でも一眼レフで撮るだけで絵になるときは絵になるし、散歩しながら写真を撮っているにもかかわらず植物を撮らなくなるようでは駄目ではないかという思いもどこかにある。なにせ近所には植物が多い。以下5点。

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続いて富岡多恵子と西部邁の対談集『大衆論』(草思社、1984年)を読んだ。西部邁の名前は日本の保守思想のテキストを読んでいるとよく目にするのだけど、以前いちど著書を読んでみたとき、文体のレベルからなんとなく受け入れがたいものを感じて、苦手意識を持ってしまった。とはいえそれでも気になる存在ではあり、富岡多恵子との対談なら読みやすいだろうと手に取ってみた次第。
西部の言葉には執筆文から受けたような抵抗感はなかった(刊行時45歳で、まだ若いせいもあるかもしれない)。興味深い内容も散見される。しかしどうも富岡多恵子のほうが格上の風格を漂わせていて、インテリ男のギロンに付き合ってあげているような感じもする。西部には「退廃がない」という以下の指摘は、退廃がないことによる脆さも含めて、人物を的確に捉えているのではないかと思う。よく知らないけど。

西部さんにはお日様に向かっている思想がどこかにあるんですね、きっと。明るいんです。[…]もしもみんながぐちゃぐちゃになってきたら、たとえうそだとわかっても、規範をつくってそれを守って、みんなでお日様に向かって、マジメに楽しく生きていかねばならないと思うところがあるんでしょう?[…]ということはね、こんなこといったら失礼かもしれないけど、といって失礼なことをいうんだけど(笑い)、退廃がないんですね。[…]西部邁という哲学者のウィークポイントは退廃かな(笑い)。(pp.191-192)

下も富岡多恵子の発言。創作と日常性・大衆性の問題。

私はいつも怖いですね。専門家の批評もさることながら、普通の人の前に、自分の言葉が引き出されて、これ、なんだといわれたときに、これ、どういうつもりだといわれたとき、言い開きできるかなという恐怖がいつもあるんですね。そして一方では、いかなる場合も自分の表現したものに一切の説明、解説、弁明はしないぞという覚悟もありますけどね。(pp.115-116)

私が詩をやめたということには、なにか難しそうな詩を書いているけど、これはなんやねんといわれたときに、その自分の立っている場所というのが非常に不安だったということもあったんですね。それと同じようなところに、また小説を書いたら来ている。詩と小説では、もちろん問題のありかも、私本人の態度もちがってはおりますが、難しい場所からおりたくないと思うんですね。そこで、不当な劣等意識をもつのでもなく、不当な優越意識をもつのでもなく、正当な自尊心をもちたいと思うのね。すみません、おばちゃん、もっとだれにでもわかる面白いの書くから待っててねと、それじゃ困ると思うのね。こういうこともあって、「大衆論」を書かれた西部さんと話してみたいと思って来たんですけどね。(p.122)

フェミニズムの勉強のため、富岡多恵子『わたしのオンナ革命』(女性論文庫、1983年)を読んでみた。各文の初出はだいたい1970年から1971年で、単行本の出版が1972年。半世紀前の本だから当然かもしれないけど、これまで読んだ富岡多恵子の本と比べていくぶん時代の隔たりを感じてしまうのは、ここ数十年の間、社会で盛んに語られてきたジェンダーの問題を扱っているからだろうか。しかしそれでもこの著者らしい厳しい人間把握がそこここに見られる。

わたしは、自分が女でよかったと思うのは、ああ自分は男のように出世しなくてもいい、男のように人類の文明のためにコナゴナになるまで働かなくてもいい、人類の繁栄と発展のために、命をかけて危険をおかさなくてもいい、と思う時である。女は、人間の文明の進歩にとって足手まといとなるものであり、ヤバンなものである。この野蛮は文明というものの進歩にとってたえず批評であるはずだった。だから、オンナ革命が、この批評の論理化にならないところでは意味がないとわたしは思っている。(pp.13-14)

ボーヴォワールというひとは、女の月経は呪詛である、といってたとふたしかに記憶しているが、わたしにとってはいまだにそれはケガレとしか感じられない。昔わたしの家にいた、田舎からきた女中さんは、月経の時お米をとぐのを拒否していた。受胎するとメデタイことになり、それが流れるとケガレとなるのはまことに不可思議なことであるが、わたしはこういうヒトの恐怖もバカにできないのだ。そればかりか、こういうバカらしい恐怖のなかに、テクノロジイでは求め得ぬ人間のエロティシズムが見えかくれする気さえするのである。そしてこういう、女の肉体と存在への恐怖には、女自身が女自身のもつコワサへの謙虚がふくまれていたとわたしは思う。こういった恐怖は、女自身より男の方が識っていたものである。それは人間の性が、生殖と快楽を未分化のままもつものであり、生と死をつなぐ原点であるコワサである。いいかえれば、人間がつくられたことへのコワサ、人間がつづいてきたことへのコワサ、人間がつづいていくことへのコワサである。これは人間ひとりがケリをつけようとしてケリがつけられぬ、なにかわけのわからぬ、おおきな空間と時間へのコワサである。だからこのコワサを忘れておれる性の革命があるなら、わたしはだんじて反革命分子としてつるし首にされていいと思うのである。(pp.44-45)


写真を撮りながら近所を散歩。上の写真はトリミングをしていないけれど、下の4点は微妙に拡大&トリミングすることで、構図を垂直に補正したり、重心の位置を調整したり、構成要素同士の関係を引き締めたりしている。こういう操作は当然そのほうが写真が良くなると思ってしているわけだけど、それによって失われるものもやはりある気がするので(自然な調和みたいなもの)、撮影時の精度を高めるに越したことはない。

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ネットを見ていると日々至るところで諍いが起こっている。言葉の応酬で勝つ人がいれば負ける人もいるのは仕方のないことだ。しかしもし言い争いで負けない秘訣を誰かに聞かれたら、僕は勝てる喧嘩しかしないと答えたい。負けそうな喧嘩はしない。
古い人間なので、「正義は勝つ」という言葉をわりと信じている。もちろん殴り合いの喧嘩や権力闘争・政治闘争などでは正義も普通に負けるだろう。しかし言葉を用いた議論に限れば、正義はまだそれなりに強い。論理をうっちゃってしまわないだけの知性と倫理観が相手にあれば、慎重に歩を進めていくことで、正義はまず負けないはずだ。ということは裏を返すと、もともと負けそうな喧嘩というのは自分の側に正義がないということになる。だから負けそうな喧嘩はそもそも最初からする意味がない。自分に正義がない争いはしないというのは卑怯でも臆病でもなんでもなく、その態度自体はすこぶる正しい。

下の一連のツイート、あらためてこのブログでまとめ直そうかとも思ったけど、考えてみると特にそれをする意味は見出せなかった。


ひとつ引っかかるのは、こうして神宮外苑の再開発について槇さんに発言の義務があると訴える人たち自身が、この再開発をどう考えているのか伝わってこないということ。少なくとも、現在の計画に大きな問題を感じているからこそ槇さんに知恵や力を貸してほしい、という雰囲気ではない。だとすると彼らは再開発に賛成する立場なのだろうか。しかし仮にそうだとすると、反対派であるべき槇さんの発言は再開発にとって不利になるものだから、槇さんに発言を求める行為は矛盾している。そして特に賛成でも反対でもないということなら、別に槇さんが発言しようがしまいがそれもどっちでもいいじゃないかと思えてしまう。



世田谷美術館で「生誕160年記念 グランマ・モーゼス展―素敵な100年人生」(〜2/27)、「ミュージアム コレクションⅢ ART / MUSIC わたしたちの創作は音楽とともにある」(〜4/10)を観た。
70代から本格的に絵を描き始めたというモーゼス(1860-1961)の絵は「アメリカの原風景」と評されるけど、それぞれ実際の風景を写しているのではなく、イメージをもとに描いていたらしい。たしかにそういう感じがして、個々の図像を組み合わせて平面を埋めているような印象。そのことでより強く象徴性を帯びるのだろう。


写真を撮りながら近所を散歩。ここ数年ずっと水平か見下ろしの写真ばかりで、見上げの写真がなかなか撮れなくなっている。見上げの写真には主観性が表れやすく、それを避けているということだろうか。単純に上方向のほうが水平から下方向よりも撮るべきものが少ない、ということだけではない気がする。見上げの写真が少ない理由を考えてみるのも面白そうだけど、ともかくどの方向であれ柔軟に撮れるように意識をほぐせるといい。


朱宇正『小津映画の日常』(名古屋大学出版会、2020年)という本を図書館で借りた。タイトルからしていかにも僕が興味をもちそうな本だけど、つい先日、たまたまネットで見かけるまで知らなかった。序章では「小津の描く日常を社会的現象として分析するのに適用可能な、いくつかの基本的な理論的枠組みや概念を、西洋の数人の思想家たちが提供してくれている」として、アンリ・ルフェーブル、ミシェル・ド・セルトー、ヴァルター・ベンヤミンの名前が挙げられている。


写真を撮りながら近所を散歩。以前にも撮影した場所(2021年5月2日)。散歩の範囲が限られていると、つい同じ場所で同じような写真を撮ってしまう。毎回新鮮にその場所に魅力を感じて撮っているならよいのだけど、以前撮影したことが自分のなかである種の実績のように作用し、保守的な慣性で撮っているのだとよくない。実際にはどちらの傾向もあると思う。

下記、『柳宗悦と民藝の哲学』(2018年7月17日)の大沢啓徳さんによるツイート。大沢さんが非常勤で担当している哲学の講義に対する学生たち(たぶん哲学専攻ではない)の声らしい。ちょっと生硬なところもあるけれど、表面的なおべんちゃらでは生まれないだろう言葉。世間でアカデミズムや学者への信頼がどんどんと失われていくなかで、意義深い講義をされているのだなと思う。

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