「LOOS AND PILSEN アドルフ・ロース展──プルゼニュ市のインテリア」をチェコ共和国大使館内のチェコセンター東京で観た(〜1/31)。その後、広尾から恵比寿まで徒歩で移動し、東京都写真美術館で「松江泰治 マキエタCC」展を観た(〜1/23)。


「松江泰治 マキエタCC」展は、実際の都市を俯瞰で写した〈CC〉シリーズと、都市や地形の模型を写した〈makieta〉シリーズを並置させた展示で、写真上が〈CC〉シリーズ、下が〈makieta〉シリーズ。松江泰治の作品は以前から興味を持っていたし(2015年12月26日)、今回も見応えがあったけれど、〈CC〉と〈makieta〉を並置させる意図はよく理解できなかった。こういう展示形式だと、多くの鑑賞者は「これは本物? それとも模型?」という問いをベースに作品と向き合うことになると思う。その現実と虚構のゆらぎみたいなことも面白いテーマだとは思うものの、それによって作品体験が枠づけられ、作品のポテンシャルを制限してしまっているように感じられた。〈makieta〉のほうはそれでもよかったかもしれないけど、〈CC〉はもっと豊かなものを内包している気がする。

ある写真家が「写真に思いは写らない」と言っていた。それは「思い」の押し売りのような写真に苛立っての発言で、その態度自体には共感できるものの、はたして実際、写真に「思い」は写らないのだろうか。たとえば絵や文や音にも「思い」は写らないということなら、「写真に思いは写らない」という言い方も理解はできる。けれども様々な表現媒体のなかで写真にだけ「思い」が写らないということはあるだろうか。仮に写真はカメラという機械によって作られる単なる映像だから「写真に思いは写らない」ということだと、アコースティックの音楽には「思い」は写るけど電子音楽には「思い」は写らない、手書きの原稿には「思い」は写るけど印刷された活字には「思い」は写らない、みたいな話になってくる気がする。
僕の実体験からすると、たとえば自分で良いと思える建築を撮るときのほうが、そうでない建築を撮るときよりも、良い写真が撮れると思う。つまり「思い」がある対象のほうが「思い」がない対象よりも良く撮れる。おそらくこれは(どんな対象であれ良い写真を撮らなければならない)プロの写真家にとっても同じではないだろうか。このことを「写真に思いが写る」と言えるかどうかはともかくとして、撮影行為の根本的な衝動でもあるそのような「思い」を否定することはできない。
むしろどちらかと言うと、放っておくとつい作品に写ってしまう「思い」をいかにコントロールするかというのが、様々な芸術表現における共通の問題としてあるかもしれない。たとえば中平卓馬がアジェやエヴァンスの写真に感じたのは、そういう「思い」が写っていないことに対する新鮮な驚きだっただろう。また忌野清志郎は、いつだったか何かのテレビ番組で、敬愛するオーティス・レディングの魅力を聞かれたとき(たしか聞き手はトータス松本で、サム・クックのことが好きなトータス松本が「やっぱりオーティス・レディングのほうがいいですか?」というような聞き方をしていた気がする)、うまく歌おうとか格好よく歌おうとかいう「思い」がなく「ただ歌っている」という感じがする、みたいなことをぼそぼそと言っていた。

浜崎洋介『小林秀雄の「人生」論』(NHK出版新書、2021年)を読んだ。出版社の要望(無茶振り)によって、依頼から口述筆記、原稿整理、脱稿までをわずか1ヶ月足らずで行ったという本。ただし読んでみると、時系列に沿ってこと細かに資料が参照され、全体構成も特に不自然な感じはないから、「ゆっくりと半年から一年ほどかけて小林論を用意しようと思っていた」(あとがき)というその準備がそれなりに進んでいたこともうかがわせる。一方で、せっかくのこういう機会なので、なにもかも出版社のせいにして、用意した資料や題材はすべて忘れ去り、思うがまま直に小林秀雄を語ろうとしてもよかったのではないかという気もした。
以下それぞれ本書より孫引き。

「辰野隆先生の講義が終ろうとするころ、入口のドアを蹴って闖入してくる黒背広の男があった。「おい、辰野、金貸せ!」すると、親分肌の辰野先生は、「儂だって、かりそめにもお前の先生だぞ」といいながら、財布をとり出し、十円貸してやっていた。この男はだまって去ったが、それが小林君だった。(p.57)

  • 今日出海「わが友の生涯」『新潮』1983年5月号

今日出海と小林秀雄は東京帝大の同級生。辰野隆は建築家・辰野金吾の長男の仏文学者で、小林より14歳年長。

 […]思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶で一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。
 上手に思い出す事は非常に難かしい。(p.148)

  • 小林秀雄「無常という事」『文學界』1942年6月号

『建築のポートレート』(写真・文=香山壽夫、LIXIL出版、2017年)の編者あとがきとして書いた「思い出すことは何か」は、フィッシュマンズの「LONG SEASON」(特に「思い出すことはなんだい?」という歌詞)に着想を得たものだけど、まさに上の文で言われる「思い出す事」を問題にしていたのだなと思う。というか小林秀雄の「無常という事」も当時から文庫本で持っていたはずなのだが。
note.com

近所にある公立の図書館で借りた本が、べつの図書館で除籍処分にされた本だった。傷みなどはなくきれいな状態。まさかこの本を処分するのかと思って元の図書館のホームページで検索したところ、その本は書庫に保管されているという情報が出た。
重複して所蔵していたうちの1冊を処分したということだろうか。しかし画面に表示される受入日と登録番号が、手元の本でシールの下にうっすらと見えるスタンプの表記と一致している。

濱口竜介『偶然と想像』(2021)を渋谷Bunkamuraル・シネマで観た。全3話のオムニバス。監督いわく、「フランスのエリック・ロメールという監督も「偶然」をテーマに映画を作られていて、それがすごく好きだったので、そういうものをやってみたいと思ったのが着想の始まりです」()。
3話とも極めて密度が高いという印象だけど、僕は最後の第3話にいちばん響くものがあった。誰かにとっての他者の固有性と交換可能性、本物と偽物、記憶と想像。まえの『寝ても覚めても』(2018年9月27日)と重なるテーマだけど、こちらのほうが真に迫っている気がした。

エリック・ロメール『コレクションする女』(1967)を観た。フランス語の原題は『La Collectionneuse』。古い雑誌のロメール特集では『好き者の娘』と訳されており(『WAVE』35号、1992年11月)、小説版は「数をこなす女」になっている(短編集『六つの本心の話』細川晋訳、早川書房、1996年)。
主人公の男性のモノローグが物語の基調をつくる一方で、画面に映される実際の彼の行動に、そのモノローグとの微妙なずれを感じさせる。モノローグが物語の状況や主人公の心理を客観的に都合よく説明するためだけの言葉になっておらず、重層的な表現を生み出している。これはたとえば小説や演劇には難しい、映画ならではの表現かもしれない。ちょうど先に挙げた『六つの本心の話』の序文に、これに関するようなことが書かれていた。この短編集はよくあるノベライズ(映画作品の小説化)ではなく、それぞれの短編を小説として「うまく書くことができなかったから」、映画にしたのだという。「こうした“短篇”のアイデアを思いついた年代には、まだ自分が映画監督になるのかどうかもわかっていなかった」。

わたしの意図はそのままの出来事を映画にすることではなく、誰かがその出来事を語った“話”を映画にすることだった。[…]すべては語り手の頭の中で起こるのだ。誰か別人によって語られていたならば、その物語は違うものになっていたか、あるいはまったく存在していなかったはずだ。わたしの主人公たちは、どこかドン・キホーテのように、長篇小説(ロマン)の登場人物を気どっているが、おそらくロマンなどどこにもないのだ。一人称による説明の存在は、映像や台詞によって翻訳できない内面の思考を示す必要からというよりも、主人公の視点を明確に位置づけ、さらにその視点そのものを作家であり映画監督であるわたし自身の見据える対象となす必要から要請されたものだった。(pp.5-6)


世田谷区奥沢の玉川平安教会(設計=清家清、1981年竣工)を訪れた。

設計者の清家自身クリスチャンであり、家族でこの教会に通っていたという。門型のファサードが特徴の即物的な建築。おそらく雑誌発表はされておらず、『清家 清』(新建築社、2006年)の作品リストにも載っていないから、清家にとって「作品」というものではなかったのかもしれない。すぐ近くには堀部安嗣さんが設計したKEYAKI GARDEN(2008年竣工)があった。

昨日の話の付け足し。当然ながら芸術作品は場合によって「分かるもの」でもある。一般に芸術は「分からないもの」あるいは「意味を一つに確定できないもの」として扱われがちだけど、そういうものを「分かる」と言うのはどことなく傲慢な気もする。実際、分かったような顔をして作品に安易なレッテル貼りをする人も少なくない(自分も時にはその一人かもしれない)。しかし、一つの領域の作品をたくさん観ていればその個々の作品の良し悪しはだいたい分かってくるものだし、その判断は別の誰かの判断とぴったり重なるわけではないとしても、人々の平均的なところから極端に外れることはあまりない(そうでなければ文化というものは成り立たない)。あるいは人々の平均的なところから外れるときでも、その判断に自分自身で納得できたり、その判断を共有する仲間がわずかでもいたりした場合、それはそれで芸術作品が「分かる」ことの豊かさがある。
あるときに分からなかった作品が、時間を経て分かるようになることもある。たとえば20歳のころに観て分からなかった(厳密に言えば、分からなかったことも分からなかった)小津安二郎の映画が40歳近くになって分かるようになった、というときの「分かる」もまた人生において格別なものだ。そこで作品の唯一の答えが分かったと言うつもりはないし、もしかしたら60歳になったときあらためて分かったと感じることになり、今はまだ本当は分かっていないのかもしれないが、いずれにせよ作品が分かったと感じられたときの喜びは芸術の体験のなかでも大きなものの一つだろう。

日本でいま芸術的だといわれているものはわけわからなくて、わけわからないほど芸術なんですよ。[…]芸術であるというふうにいわれている建築というのは、ヘンなものつくりゃ大体いいんですよ。(清家清)

  • 白井健三郎・清家清・栗田勇「すまう自然とつくる反自然」『現代日本建築家全集16 清家清』栗田勇監修、三一書房、1974年

清家清はこういう発言を1950年代から繰り返していたけれど、今の世の中でも「芸術=分からないもの」という見方は強いと思う。一方で「この作品は○○を表現しています」と芸術にことさら「正解」を当てはめたがる傾向があり、それに対してむしろ「分からないもの」であることにこそ芸術の価値を見るという傾向がある。たとえば美術館や芸術祭は日常から離れて「分からないもの」に出会う場であり、作品について観る人それぞれがその人なりに考えることに意味がある、というように。そしてこの対立的な二極は、「芸術=分からないもの」という「正解」をあらゆる芸術に当てはめようとするときに重なりあう。
僕自身は作品を観てまず「よい」とか「すごい」とか「引き込まれる」とかいう印象があり、その印象がどこから来るのか分からないという場合の「分からない」を考えるのはわりと好きだけど、最初からただただ分からない謎解きめいた作品は芸術の専門的な袋小路に入っている気がして観るのを諦めてしまうことが少なくない。たとえば難解な理論で知られる岡﨑乾二郎さんも、その作品に向き合うと最初にまず確かな印象をもたらしてくれる。ぜんぜん分からなくない。むしろ「謎解きめいた作品」を批判してさえいるかのようだ。しかしそこから知的に考えを進めようとすると分からなくなってくる。体験の深さがある(岡﨑さんの作品はたとえば2016年11月25日)。
僕が「芸術の専門的な袋小路に入っている」と感じて見限ってしまう多くの作品のなかには、じつは確かな印象をもたらしてくれるものも含まれているかもしれない。しかし限られた人生、それはそれで仕方ない。アマチュアとして芸術に親しむぶんにはそれでもいいと思う。「最初からただただ分からない作品」に「いや、じつは何かあるはずだ」と向き合い続けるのはよくも悪くも信仰のようなものであり、信仰は信仰で大切だと思うけど(たとえば今の自分にはよく分からないけど現に信頼する人たちが高く評価しているからそれを信じて鑑賞するとか)、信仰するのに足りない相手を信仰するのは健全ではない。
このまえ読んだ吉田健一の言葉。「ヴァレリーを読んで、芸術などというのはどうでもいいことを知った。正確な線が一つ引ける方が、芸術の仕事という、何なのかいっこうにはっきりしない世界に頭を突っ込んで迷子になるのよりも上であり、それを教えられて以来、その線を引くことに熱中した」(6月15日)。たとえば民藝はまさにこの「正確な線」を示すものだろう。柳宗悦たちはまずそこにある物を直観して「よい」とか「すごい」とかを感じ、そういう物をたくさん観ていくなかで、それらに共通の性質──民衆的や手仕事や量産や無名性を見いだしていった。まず決定的な体験があり、そこから「正確な線」が引かれていった。
柳宗悦は、物を観るときの直観の働きは「殆ど何等の時間をも要しない」と書いている(「直観について」1960年執筆、『民藝』1963年1月号)。これは言ってみれば、「最初からただただ分からない謎解きめいた作品」に時間をかけて長々と付き合う必要はないということだろう。もっともこれは民藝のようにその存在の形式自体はよく知られている物(皿とか鍋とか)だから成り立つ話であって、絵画や彫刻といった伝統的な形式の美術ならまだしも、存在形式自体に問いを含むような現代アートなどには当てはまらないかもしれない。そして現実にかなり多義的な存在である建築の場合も、その良し悪しは必ずしも一瞬で判断できるとは限らないと思う。
建築は技術や材料や経済や法律や慣習や機能や身体スケールなど多くの制約があり、それらによって強い形式性を帯びる。だからその形式を崩したりエレメントを組み替えたりすることで新鮮なムードや謎めいたムードをまとわせることは比較的容易とも言える。しかしそうした修辞的操作の効果は、かつて坂本一成が「基層の象徴作用」に対する「表層の象徴作用」と捉えたように(「建築での象徴作用とその図式──両義的なことの内に」『新建築』1979年6月号)、一時的で限られた範囲にとどまるだろう。たとえばマニエリスムの建築として有名なパラッツォ・デル・テ(1534年)。

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この柱の上に架かる水平材が一直線にならずにところどころで下にずり落ちているような意匠(隙間が屋根裏の換気口になっているらしい)は、当時としては古代以来の伝統的な形式に違反する新鮮で謎めいた意匠だったのだろうけど、今その魅力をダイレクトに感じることは難しい(と思う。行ったことないけど)。この壁面は他にも開口があるべきところが塞がっていたり、ペディメントを支えるべき垂直材が途中で消えていたり、石積みの表現も平たいのと粗いのが混じっていたり、オーソドックスな建築の構法を批判するようなマニエリスム的手法が駆使されている。こうした建築のレトリックは、いったい何年間くらいヴィヴィッドな効力を持ったのだろうか。たとえそれが一時の刹那的な面白さだったとしても、だから駄目な意匠だと一概に言えるわけではないけれど(型を崩したり文脈を組み替えたりすることの面白さは、おそらく古今東西、人間の創作において大なり小なり常に意識されてきたことだと思う)、マニエリスムの建築が様式として建築史上で低く位置づけられていた一因には、こうした普遍性のなさがあったかもしれない。
作品の持続性。清家清は芸術についてこんなふうにも言っていた。

前川(國男)先生にお聞きしたのですが、芸術と芸術でないものとの違いは何かというと、もう1回見たい、あるいは聞きたいと思うものが芸術で、一度だけ感動しても、一度だけで終わるのは芸術ではないということです。これはなかなかおもしろい定義だと思いました。

  • 清家清ほか「清家清に問う──10人10問100の回答を通して」『別冊新建築「日本現代建築家シリーズ⑤」清家清』1982年10月


2022年で販売を終了するとアナウンスされていた(2020年5月15日)LIXIL出版の既刊在庫、結局すべてトゥーヴァージンズという別の出版社が引き継ぐことになったようだ。LIXIL出版の本は基本的に定価を安く設定しているし、様々な手間を考えてもたぶん今後の増刷は厳しいだろうけど、とりあえず出版されたぶんが無駄にならなくてよかった。以下、僕が編集としてクレジットされている本。

東京で展覧会をハシゴ。妹島和世+西沢立衛/SANAA展「環境と建築」(〜3/20)をTOTOギャラリー・間で、「白井晟一 入門」展(〜1/30)を渋谷区立松濤美術館で、GROUP個展「手入れ/Repair」(〜11/21、会員制)をWHITEHOUSEで、それぞれ観た。この2021年11月20日の日記を書いている今日は2022年4月14日なのだが、やはりこれだけ時間が経つと、鑑賞したものについてちゃんとしたことは書けなくなる(先の香月泰男展や民藝展なども然り)。けっきょく展覧会でも建築でも本でも映画でも、時間が経てば忘れるものだけど、多少でも文章にしてから忘れるのとそのまま忘れるのとでは経験として蓄積されるものが大きく異なる気がする。反省。

建築の設計者名をメディアで表記するとき、実際に仕事を請け負った組織の名前にするのか、それともその組織を代表する個人の名前にするのか、その選択がしばしば問題にされる。去年読んだ(2020年11月1日)村野藤吾の『建築をつくる者の心』(なにわ塾叢書4、ブレーンセンター、1981年)にはこういう発言があった。

自営でなく、他所に勤めている人がこの中におられますが、その場合には、自分が担当したのを、自分の作品というのは、避けた方がいいと思う。やはり、事務所を代表している人の、その人の作品であるだろうし、そうでなければなりません。(pp.43-44)
担当者にある程度やらせる場合もあるし、そうでない場合もあります。ところが、それは等しく私の作品だと思っております。どこまでかかわれば自分の作品だとかいうものではありません。(p.44)

この村野の考えはおそらくあまり現代的ではなく、今日のインターネット上では「搾取」と言われて糾弾されかねないものだろう。ただ、村野の発言を見ると、作品を個人名義にすることで建築ジャーナリズムや建築史に自らの名前を刻みたいというより、むしろ極めて実務的に、建築は社会的な存在であり多くの人が関わるものだからこそ責任者としての自分の名前を冠しておく、というような意識があるようにも思える。このまえ(9月21日)見学した赤坂離宮の改修設計は世間で「村野先生の仕事」と認識されがちだったのではないかと思うけど(公式には建設大臣官房官庁営繕部+村野・森建築事務所)、完成時、村野本人は「なるべく(取扱いを)地味におねがいします」、「ただ建設省のをお手伝いをしたに過ぎない」と、自分の関わりを限定している(『新建築』1974年6月号)。
建築は社会的で多面的な存在だから、設計者名の表記をどうするかの判断は、その時々の状況や文脈によって違っていてよいと思う。ただ最近は(建築に限らず美術や映画などの分野でも)政治的・権利的な視点から、集団制作であることを重視する傾向が強い気がする。本当に大衆的なレベルでは「隈研吾」なり「安藤忠雄」なり少数の個人名が突出しすぎる構造があるので(たとえば地下鉄の渋谷駅の使いづらさを安藤さん個人の作家性に帰結させて非難するのはあまりに無茶だろう)、それを批判する意義はよく分かるけど、僕はやはり建築に特定の「作者」を見る視点も大切だと思う(それは必ずしも個人に限らず、コンビでもトリオでもよい)。
たとえば映画も大勢の人によって作られるものだけど、すぐれた監督の作品を何本か観れば、仮に作品ごとに出演者や脚本家や撮影監督といった重要なメンバーが違っていても、何かしら通底するものが感じられるはずだと思う。きっとオーケストラの指揮者なんかもそういうものだろう。クラッシック音楽に馴染みのない人(僕だ)は、指揮者によって何が変わるのかよく分からない。でも分かる人には分かる。というかそこで変わってくるようなものこそ芸術において大事なのだろうと思う。
そういうときの作家性=個性とは、どの建物も打ち放しコンクリートでできているとか、ファサードに板がくっつけてあるとか、そういう分かりやすいものではなく、もっと文化を湛え、時にそれとせめぎ合うようなものだ。たとえば伊東豊雄さんが最初に《みんなの家》(2011年)を作ったとき、それまでの伊東さんの作品と明らかに異なる保守的なかたちが話題になった。伊東さん自身にも「作家性のない普通のもの」を作ったという自覚はあったと思うのだけど、実際に建物を体験した妹島さんは、「あ、やっぱり伊東さんの建築だなと思った」と仰っていた。作家性とはそういう表れ方をするものでもあるだろう。
以下メモ。最近読んだ文章より。

名建築の設計を巨匠ひとりの功績に帰すことも多いが、そこにも注意が必要である。多くの建築家が考えつかないような形やアイデアを提案できる、独創的で際立った個性を高く評価するのは、ルネサンス時代からである。しかし、大規模な建物をつくることは、スタッフや、構造や設備の技術者、施工者、そして施主をも含む共同作業である。私は、有名建築家の弟子たちからいろいろ話を聞いてきたが、その際、「あれは私がやりました」といわれることもあった。しかし、その弟子たちの独立後の作品にはさほどの輝きが見られないこともあるので、それをそのまま受け入れることはできない。とはいえ、巨匠がひとりですべてを決めているわけでもない。