続いて富岡多恵子と西部邁の対談集『大衆論』(草思社、1984年)を読んだ。西部邁の名前は日本の保守思想のテキストを読んでいるとよく目にするのだけど、以前いちど著書を読んでみたとき、文体のレベルからなんとなく受け入れがたいものを感じて、苦手意識を持ってしまった。とはいえそれでも気になる存在ではあり、富岡多恵子との対談なら読みやすいだろうと手に取ってみた次第。
西部の言葉には執筆文から受けたような抵抗感はなかった(刊行時45歳で、まだ若いせいもあるかもしれない)。興味深い内容も散見される。しかしどうも富岡多恵子のほうが格上の風格を漂わせていて、インテリ男のギロンに付き合ってあげているような感じもする。西部には「退廃がない」という以下の指摘は、退廃がないことによる脆さも含めて、人物を的確に捉えているのではないかと思う。よく知らないけど。

西部さんにはお日様に向かっている思想がどこかにあるんですね、きっと。明るいんです。[…]もしもみんながぐちゃぐちゃになってきたら、たとえうそだとわかっても、規範をつくってそれを守って、みんなでお日様に向かって、マジメに楽しく生きていかねばならないと思うところがあるんでしょう?[…]ということはね、こんなこといったら失礼かもしれないけど、といって失礼なことをいうんだけど(笑い)、退廃がないんですね。[…]西部邁という哲学者のウィークポイントは退廃かな(笑い)。(pp.191-192)

下も富岡多恵子の発言。創作と日常性・大衆性の問題。

私はいつも怖いですね。専門家の批評もさることながら、普通の人の前に、自分の言葉が引き出されて、これ、なんだといわれたときに、これ、どういうつもりだといわれたとき、言い開きできるかなという恐怖がいつもあるんですね。そして一方では、いかなる場合も自分の表現したものに一切の説明、解説、弁明はしないぞという覚悟もありますけどね。(pp.115-116)

私が詩をやめたということには、なにか難しそうな詩を書いているけど、これはなんやねんといわれたときに、その自分の立っている場所というのが非常に不安だったということもあったんですね。それと同じようなところに、また小説を書いたら来ている。詩と小説では、もちろん問題のありかも、私本人の態度もちがってはおりますが、難しい場所からおりたくないと思うんですね。そこで、不当な劣等意識をもつのでもなく、不当な優越意識をもつのでもなく、正当な自尊心をもちたいと思うのね。すみません、おばちゃん、もっとだれにでもわかる面白いの書くから待っててねと、それじゃ困ると思うのね。こういうこともあって、「大衆論」を書かれた西部さんと話してみたいと思って来たんですけどね。(p.122)