フェミニズムの勉強のため、富岡多恵子『わたしのオンナ革命』(女性論文庫、1983年)を読んでみた。各文の初出はだいたい1970年から1971年で、単行本の出版が1972年。半世紀前の本だから当然かもしれないけど、これまで読んだ富岡多恵子の本と比べていくぶん時代の隔たりを感じてしまうのは、ここ数十年の間、社会で盛んに語られてきたジェンダーの問題を扱っているからだろうか。しかしそれでもこの著者らしい厳しい人間把握がそこここに見られる。

わたしは、自分が女でよかったと思うのは、ああ自分は男のように出世しなくてもいい、男のように人類の文明のためにコナゴナになるまで働かなくてもいい、人類の繁栄と発展のために、命をかけて危険をおかさなくてもいい、と思う時である。女は、人間の文明の進歩にとって足手まといとなるものであり、ヤバンなものである。この野蛮は文明というものの進歩にとってたえず批評であるはずだった。だから、オンナ革命が、この批評の論理化にならないところでは意味がないとわたしは思っている。(pp.13-14)

ボーヴォワールというひとは、女の月経は呪詛である、といってたとふたしかに記憶しているが、わたしにとってはいまだにそれはケガレとしか感じられない。昔わたしの家にいた、田舎からきた女中さんは、月経の時お米をとぐのを拒否していた。受胎するとメデタイことになり、それが流れるとケガレとなるのはまことに不可思議なことであるが、わたしはこういうヒトの恐怖もバカにできないのだ。そればかりか、こういうバカらしい恐怖のなかに、テクノロジイでは求め得ぬ人間のエロティシズムが見えかくれする気さえするのである。そしてこういう、女の肉体と存在への恐怖には、女自身が女自身のもつコワサへの謙虚がふくまれていたとわたしは思う。こういった恐怖は、女自身より男の方が識っていたものである。それは人間の性が、生殖と快楽を未分化のままもつものであり、生と死をつなぐ原点であるコワサである。いいかえれば、人間がつくられたことへのコワサ、人間がつづいてきたことへのコワサ、人間がつづいていくことへのコワサである。これは人間ひとりがケリをつけようとしてケリがつけられぬ、なにかわけのわからぬ、おおきな空間と時間へのコワサである。だからこのコワサを忘れておれる性の革命があるなら、わたしはだんじて反革命分子としてつるし首にされていいと思うのである。(pp.44-45)