下記、ポール・ヴァレリーをめぐる吉田健一(1912-77)と吉田秀和(1913-2012)の言葉。二人の吉田がつながった。

 しかし繰り返して言うと、それがただ簡潔だけなのではない。つまり、複雑なことも、優雅なことも、あるいは切実なことも、すべて的確に、過不足なしにその言葉を与えられているから、我々はその効果とともに、いっさいの無駄を避けることに決めた当のヴァレリーの意志を受け取って、そこに美は美でしかない、あるいは、鈴懸けの木と書いてあれば、そこに鈴懸けの木があるだけの、我々の精神をこの上もなく慰めてくれる世界が出現する。ヴァレリーを読んで、芸術などというのはどうでもいいことを知った。正確な線が一つ引ける方が、芸術の仕事という、何なのかいっこうにはっきりしない世界に頭を突っ込んで迷子になるのよりも上であり、それを教えられて以来、その線を引くことに熱中した。

  • 吉田健一「ヴァレリー頌」1960年(ポール・ヴァレリー『精神の政治学』吉田健一訳、中公文庫、2017年)

 私が考え、その考えたことをのべることについて、いちばん学んだのはデカルトとヴァレリーのいろいろな本からである。なかでもヴァレリーは、その考えるということが芸術を相手とした場合、どうなるかについて急所を伝えてくれた。

  • 吉田秀和「一冊の本」1964年(『吉田秀和全集 10』白水社、1975年)

デカルトとヴァレリーに共通の重要な概念として理性というものがありそうだけど、それは両者を実際に読んだことがない者には硬く冷たいものに思えるのに対し、読んだことがある者には柔らかく血が通ったものに思えるのではないか。(ほとんど読んだことがない者の想像)