昨日の話の付け足し。当然ながら芸術作品は場合によって「分かるもの」でもある。一般に芸術は「分からないもの」あるいは「意味を一つに確定できないもの」として扱われがちだけど、そういうものを「分かる」と言うのはどことなく傲慢な気もする。実際、分かったような顔をして作品に安易なレッテル貼りをする人も少なくない(自分も時にはその一人かもしれない)。しかし、一つの領域の作品をたくさん観ていればその個々の作品の良し悪しはだいたい分かってくるものだし、その判断は別の誰かの判断とぴったり重なるわけではないとしても、人々の平均的なところから極端に外れることはあまりない(そうでなければ文化というものは成り立たない)。あるいは人々の平均的なところから外れるときでも、その判断に自分自身で納得できたり、その判断を共有する仲間がわずかでもいたりした場合、それはそれで芸術作品が「分かる」ことの豊かさがある。
あるときに分からなかった作品が、時間を経て分かるようになることもある。たとえば20歳のころに観て分からなかった(厳密に言えば、分からなかったことも分からなかった)小津安二郎の映画が40歳近くになって分かるようになった、というときの「分かる」もまた人生において格別なものだ。そこで作品の唯一の答えが分かったと言うつもりはないし、もしかしたら60歳になったときあらためて分かったと感じることになり、今はまだ本当は分かっていないのかもしれないが、いずれにせよ作品が分かったと感じられたときの喜びは芸術の体験のなかでも大きなものの一つだろう。