エリック・ロメール『コレクションする女』(1967)を観た。フランス語の原題は『La Collectionneuse』。古い雑誌のロメール特集では『好き者の娘』と訳されており(『WAVE』35号、1992年11月)、小説版は「数をこなす女」になっている(短編集『六つの本心の話』細川晋訳、早川書房、1996年)。
主人公の男性のモノローグが物語の基調をつくる一方で、画面に映される実際の彼の行動に、そのモノローグとの微妙なずれを感じさせる。モノローグが物語の状況や主人公の心理を客観的に都合よく説明するためだけの言葉になっておらず、重層的な表現を生み出している。これはたとえば小説や演劇には難しい、映画ならではの表現かもしれない。ちょうど先に挙げた『六つの本心の話』の序文に、これに関するようなことが書かれていた。この短編集はよくあるノベライズ(映画作品の小説化)ではなく、それぞれの短編を小説として「うまく書くことができなかったから」、映画にしたのだという。「こうした“短篇”のアイデアを思いついた年代には、まだ自分が映画監督になるのかどうかもわかっていなかった」。

わたしの意図はそのままの出来事を映画にすることではなく、誰かがその出来事を語った“話”を映画にすることだった。[…]すべては語り手の頭の中で起こるのだ。誰か別人によって語られていたならば、その物語は違うものになっていたか、あるいはまったく存在していなかったはずだ。わたしの主人公たちは、どこかドン・キホーテのように、長篇小説(ロマン)の登場人物を気どっているが、おそらくロマンなどどこにもないのだ。一人称による説明の存在は、映像や台詞によって翻訳できない内面の思考を示す必要からというよりも、主人公の視点を明確に位置づけ、さらにその視点そのものを作家であり映画監督であるわたし自身の見据える対象となす必要から要請されたものだった。(pp.5-6)