濱口竜介寝ても覚めても』(2018)をヒューマントラストシネマ有楽町で観た。映画を観るまえに原作である柴崎友香さんの小説『寝ても覚めても』(河出書房新社、2010年)を読み返さなければいけないという思い込みがなぜかあり、昨夜と今日の午前中で読み通してから行った。しかしそれで小説版の印象が強かったためなのか、僕はこの映画版にはどうも乗れなかった。
原因はいろいろあると思うのだけど、影響が大きいのは最初と最後だろうか。まず序盤、物語にとって決定的に重要であるはずの「朝子が麦(ばく)と出会ってどうしようもなく恋に落ちること」のリアリティが欠けているように思われた。おそらく小説と映画には表現媒体としての質的・量的水準の違いがあり、小説と比べて映画(特に今回のような商業映画)では、物語を切り詰め、要素をより単純化しなければならない。その必然性は分かるのだけど、しかし若い男女が常識はずれの状況でキスをすれば(2回)、それがそのまま二人が恋に落ちていることの証明になるというわけでもないだろう。実際、映画自身が「そんな出会いあるかい!」とセルフつっこみをしなければならないほど、そこには飛躍があったと思う。原作の小説でも朝子の心理描写にある種の飛躍は見られるのだけど、小説ではその有無を言わさない言い切りこそが、恋に落ちることのどうしようもなさをそれ特有の多幸感をたたえながら表現しているのに対し、映画版ではその飛躍が観客の感覚を超える方向に働いてしまっている気がする(別に映画と原作小説の違いをマニアックに言挙げしたいわけではなく、むしろ映画版と小説版とが互いのあり方を明らかにする批評的な関係にあると言っていいと思う)。
朝子が恋に落ちたことを表現するために、小説ならば一人称の主人公としてその内面(心の声)をダイレクトに記述することができるけれど、映画の場合、あくまで人物の外側からそれを示さなければならない。こうした表現媒体ごとの違いは、僕が6月のトークイベント(中山英之×柴崎友香×長島明夫)で小説版『寝ても覚めても』の冒頭部分について指摘した、小説的な「展開の鮮やかさ」()ということとも通じていると思う。例えば麦が朝子の前から姿を消すときの「唐突さ」を考えても、ふつうに作れば映画は小説よりどうしても鈍くなってしまう気がする。小説だと「麦が消えた」と書けばその一言で、読者は多少のショックとともにその事態を受け止めずにはいられない一方、映画では単にその人物が画面に出てこなくなっただけでは「消えた」という事実は実感しづらい。たとえそのことをナレーションで説明されたとしても、そこでの声は小説における文字ほど力をもちえない(しかし反対に麦と瓜二つの顔の亮平が朝子の前にはじめて現れるときの「唐突さ」は、今回の映画の一人二役という手法によって、映画のほうが小説よりも視覚を通してダイレクトに表現できると言える)。
ところで柴崎さんの小説、あるいは特に『寝ても覚めても』という作品は、人物間の心理的および物理的距離、場所や空間の距離、時間や年代の距離など、様々な距離を立体的に細かく調整していくことが表現の核心にあるのではないかと思う。ただ、映画ではそうした表現手法を丁寧になぞる容量的な余裕はないのかもしれないし、そもそも表現媒体として基本的にそういった緻密な調整に向いていないような気もする(小説は動かないが映画は動くので、鑑賞者のほうで作品のかたちを厳密に捉えるのが難しい。小説は意識を集中させてこちらから向かっていく必要があるが、映画はくつろいだ状態でも向こうからやってきてくれる。それで映画はより分かりやすくスペクタクル化しやすい。ベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」(1936)で指摘しているようなこと)。だから仮に『寝ても覚めても』の原作小説において「距離の調整」が表現の鍵になっていたとしても、映画版がそれと同様の作り方をしなければならないわけはない。
小説版と映画版で設定が異なるところは多々あるけれど、その大きな一つとして、亮平を真面目で優秀なサラリーマンにすることで、エキセントリックで捉えどころがない麦のキャラクターとの対比を強めたという点が挙げられる(映画では麦と亮平が同じ役者によって演じられるため、両者を混同させないように対比を際立たせる必要もあっただろう)。それは言ってみれば、二人の人物が作品世界のなかで取りもつ微妙な距離感を一旦リセットして、それぞれのキャラをなかば記号的に分かりやすく位置づけ直すということでもある。これ自体は必ずしも悪いことではない。元の作品の曖昧さを明快に整理したとも言える。けれども原作を読んでいる僕には、その読書体験のせいかどうかは断言できないものの、ぬぐえない違和感があった。塚本晋也『双生児 -GEMINI-』(1999)さえ連想させるような麦と亮平の強い対比は、その帰結として終盤の麦の行為をとりわけ不気味な悪魔のささやきのように感じさせ、それに応えた朝子の行為は正気を失ったなかでの過ちというふうにことさら印象づけられる(結果、映画版の真面目な亮平は朝子に激怒しなければならなくなる。原作では亮平は朝子の知り合いとの浮気をほのめかされるような人物でもあったにもかかわらず)。もちろんそのようなニュアンスは小説版でも感じられるのだけど、しかし小説版ではあくまで麦は麦として、朝子は朝子として、より俯瞰的に各々の存在が認められるような描き方がされていたはずだ。善悪ないし正負の分かりやすい二元論的な世界に回収されるような関係ではなかった。このことは柴崎さんの作品の本質だと思う。だからここを崩して作品世界をあらためて別の秩序で再生させるのはかなり大変なことに違いない。
あともう一つだけ、十数年来の柴崎友香の読者として、映画終盤の岡崎の再登場のさせ方には文句を付けずにはいられない。柴崎さんの多くの小説は基本的に群像劇としての性質をもち、それぞれの人物がそれぞれの人生を生きているという相対的な世界観が通底している。だからたとえある登場人物が途中から文章で書かれなくなっても、それは単に小説に出てこなくなっただけで、本人はどこかでそれなりに生きているのだろう(あるいは死んでいるかもしれないがそれもまた人生)と無意識のうちに読者に思わせている。しかし映画版『寝ても覚めても』の岡崎という人物の再登場のさせ方は、物語の些細な都合のために、一人の人間の生を文字どおり暴力的に作品に従属させている。これはどう考えても駄目だろう。その再登場の唐突さこそが「現実」だと解釈するのも無理がある。
蓮實重彦氏は映画『寝ても覚めても』に次のようなコメントを寄せている(抜粋)。「向かいあうこともなく二人の男女が並び立つラスト・ショットの途方もない美しさ。しかも、ここには、二十一世紀の世界映画史でもっとも美しいロングショットさえ含まれている」(→映画HP)。確かに二人がカメラに向かって正対する最後のショットには、このまえ(9月14日)触れた小津安二郎のバストショットのことなども踏まえつつ考えてみたい気にさせられる。そしてそのショットと同じように、この映画には技術的・表現手法的に傑出した数々の「部分」が間違いなくあるだろう。ただ、僕がこの映画を観てなにか言おうとすると、まず出てくるのは上のような言葉になってしまう。こういうのはどうやら映画をたくさん観ている人たちが気にかけるポイントとはズレているらしい、ということを最近あらためて感じている。この映画にしても、僕が信頼しているような人たちでもてらいなく褒めている人は案外多いようだし、どちらが正しいか間違っているかというより、あるいは映画作品に向き合うときの根本的な価値基準が異なっているのではないかと思わせられる。