日本でいま芸術的だといわれているものはわけわからなくて、わけわからないほど芸術なんですよ。[…]芸術であるというふうにいわれている建築というのは、ヘンなものつくりゃ大体いいんですよ。(清家清)

  • 白井健三郎・清家清・栗田勇「すまう自然とつくる反自然」『現代日本建築家全集16 清家清』栗田勇監修、三一書房、1974年

清家清はこういう発言を1950年代から繰り返していたけれど、今の世の中でも「芸術=分からないもの」という見方は強いと思う。一方で「この作品は○○を表現しています」と芸術にことさら「正解」を当てはめたがる傾向があり、それに対してむしろ「分からないもの」であることにこそ芸術の価値を見るという傾向がある。たとえば美術館や芸術祭は日常から離れて「分からないもの」に出会う場であり、作品について観る人それぞれがその人なりに考えることに意味がある、というように。そしてこの対立的な二極は、「芸術=分からないもの」という「正解」をあらゆる芸術に当てはめようとするときに重なりあう。
僕自身は作品を観てまず「よい」とか「すごい」とか「引き込まれる」とかいう印象があり、その印象がどこから来るのか分からないという場合の「分からない」を考えるのはわりと好きだけど、最初からただただ分からない謎解きめいた作品は芸術の専門的な袋小路に入っている気がして観るのを諦めてしまうことが少なくない。たとえば難解な理論で知られる岡﨑乾二郎さんも、その作品に向き合うと最初にまず確かな印象をもたらしてくれる。ぜんぜん分からなくない。むしろ「謎解きめいた作品」を批判してさえいるかのようだ。しかしそこから知的に考えを進めようとすると分からなくなってくる。体験の深さがある(岡﨑さんの作品はたとえば2016年11月25日)。
僕が「芸術の専門的な袋小路に入っている」と感じて見限ってしまう多くの作品のなかには、じつは確かな印象をもたらしてくれるものも含まれているかもしれない。しかし限られた人生、それはそれで仕方ない。アマチュアとして芸術に親しむぶんにはそれでもいいと思う。「最初からただただ分からない作品」に「いや、じつは何かあるはずだ」と向き合い続けるのはよくも悪くも信仰のようなものであり、信仰は信仰で大切だと思うけど(たとえば今の自分にはよく分からないけど現に信頼する人たちが高く評価しているからそれを信じて鑑賞するとか)、信仰するのに足りない相手を信仰するのは健全ではない。
このまえ読んだ吉田健一の言葉。「ヴァレリーを読んで、芸術などというのはどうでもいいことを知った。正確な線が一つ引ける方が、芸術の仕事という、何なのかいっこうにはっきりしない世界に頭を突っ込んで迷子になるのよりも上であり、それを教えられて以来、その線を引くことに熱中した」(6月15日)。たとえば民藝はまさにこの「正確な線」を示すものだろう。柳宗悦たちはまずそこにある物を直観して「よい」とか「すごい」とかを感じ、そういう物をたくさん観ていくなかで、それらに共通の性質──民衆的や手仕事や量産や無名性を見いだしていった。まず決定的な体験があり、そこから「正確な線」が引かれていった。
柳宗悦は、物を観るときの直観の働きは「殆ど何等の時間をも要しない」と書いている(「直観について」1960年執筆、『民藝』1963年1月号)。これは言ってみれば、「最初からただただ分からない謎解きめいた作品」に時間をかけて長々と付き合う必要はないということだろう。もっともこれは民藝のようにその存在の形式自体はよく知られている物(皿とか鍋とか)だから成り立つ話であって、絵画や彫刻といった伝統的な形式の美術ならまだしも、存在形式自体に問いを含むような現代アートなどには当てはまらないかもしれない。そして現実にかなり多義的な存在である建築の場合も、その良し悪しは必ずしも一瞬で判断できるとは限らないと思う。
建築は技術や材料や経済や法律や慣習や機能や身体スケールなど多くの制約があり、それらによって強い形式性を帯びる。だからその形式を崩したりエレメントを組み替えたりすることで新鮮なムードや謎めいたムードをまとわせることは比較的容易とも言える。しかしそうした修辞的操作の効果は、かつて坂本一成が「基層の象徴作用」に対する「表層の象徴作用」と捉えたように(「建築での象徴作用とその図式──両義的なことの内に」『新建築』1979年6月号)、一時的で限られた範囲にとどまるだろう。たとえばマニエリスムの建築として有名なパラッツォ・デル・テ(1534年)。

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この柱の上に架かる水平材が一直線にならずにところどころで下にずり落ちているような意匠(隙間が屋根裏の換気口になっているらしい)は、当時としては古代以来の伝統的な形式に違反する新鮮で謎めいた意匠だったのだろうけど、今その魅力をダイレクトに感じることは難しい(と思う。行ったことないけど)。この壁面は他にも開口があるべきところが塞がっていたり、ペディメントを支えるべき垂直材が途中で消えていたり、石積みの表現も平たいのと粗いのが混じっていたり、オーソドックスな建築の構法を批判するようなマニエリスム的手法が駆使されている。こうした建築のレトリックは、いったい何年間くらいヴィヴィッドな効力を持ったのだろうか。たとえそれが一時の刹那的な面白さだったとしても、だから駄目な意匠だと一概に言えるわけではないけれど(型を崩したり文脈を組み替えたりすることの面白さは、おそらく古今東西、人間の創作において大なり小なり常に意識されてきたことだと思う)、マニエリスムの建築が様式として建築史上で低く位置づけられていた一因には、こうした普遍性のなさがあったかもしれない。
作品の持続性。清家清は芸術についてこんなふうにも言っていた。

前川(國男)先生にお聞きしたのですが、芸術と芸術でないものとの違いは何かというと、もう1回見たい、あるいは聞きたいと思うものが芸術で、一度だけ感動しても、一度だけで終わるのは芸術ではないということです。これはなかなかおもしろい定義だと思いました。

  • 清家清ほか「清家清に問う──10人10問100の回答を通して」『別冊新建築「日本現代建築家シリーズ⑤」清家清』1982年10月