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迎賓館赤坂離宮を見学。本館(設計=片山東熊、1909年竣工。昭和の大改修の設計は建設大臣官房官庁営繕部+村野藤吾で1974年竣工)と和風別館(設計=建設大臣官房官庁営繕部+谷口吉郎、1974年竣工)、どちらも館内は撮影禁止。入場は予約制だけど、今は2〜3日前でも間に合うようだった。有料で一般2000円(どちらか一方の場合は1500円)。本館のほうは自由見学で36頁オールカラーのきれいな冊子が付き、和風別館のほうは少人数のツアー形式で丁寧な案内がある。
本館のほうはやはり巷の西洋館とは一線を画し、国宝になるだけの迫力を感じる。和風別館のほうは「こちらは新しいので、まだ国宝にはなっていません」と、今日案内してくれた人が言っていた。ふたつの建物が掲載された『新建築』(1974年6月号)の翌月の月評では、片山+村野の本館が一定の評価を得ているのに対し、谷口の和風別館はひどい言われようだった。

  • 本館の家具代(6.6億円)にもならない工費で、この程度のものしかつくらないのであれば、近くの赤坂の料亭でも利用したほうが気がきいている。この建物の清楚な意匠それ自体は悪くないとしても、隣の本館に対抗できるくらい、豪華絢爛な和風デザインをこんな際に企画したらよかったのではないだろうか。(山下和正)
  • 日本風コンクリート建築の「迎賓館和風別館」のほうはいただけない。少なくとも迎賓をする以上はわが国の特質をだすべきで、純木造形式による迎賓館をつくるべきだろう。(相田武文)
  • これは大変なしろものだなあ。形式主義の外観、高級料亭風室内、困るなあ、いっそ宮内庁直営の高級雀荘にでもしたら。(泉真也)

※月評の担当者は4名いたが、残りの1名(高口恭行)は和風別館に触れていない。

このあたりが当時の一般的(建築界的)な認識だったのだろうか。和風を目的にした建築なのに木造でないのは「都市計画の防火地区に属しているため」と谷口が書いている(「迎賓館の和風別館」『サンケイ新聞』1974年7月27日付)。とはいえ国の迎賓館なのだし、周りも建物が密集しているわけではないのだから、超法規的になんとかならなかったのかという意見はありえるだろうけど、少なくともそれは設計者の責任の範囲を超えたことだろう(しかしもし自由にできたら谷口は木造を選択しただろうか)。予算の件もまた同様のはずだから、そういうことを『新建築』の月評で書いても仕方ないような気がする(予算ももしもっと潤沢だったとしても、谷口はそれをどこまで必要としただろうか。そういえば1962年竣工のホテルオークラ本館(2015年8月27日)のときは逆に、装飾の絢爛豪華さを批判する意見が建築界であったと思う。時代の変化なのか何なのか)。
和風別館を数年前に見学した富永讓さんは「谷口吉郎の最高傑作ではないか」と仰っていた。では僕はどうかというと、そこまで確信をもった判断ができない。きわめて精度の高い、よい建築だと思うけど、はたして谷口の建築のなかでどのあたりに位置づけられるのか。判断できないのはまず何より僕の建築を観る目が未熟なせいだとしても、谷口の個々の建築が分かりやすく「キャラ立ち」しておらず、作品として同一平面上で比較するのが難しいというせいもある気がする。また、たとえばホテルオークラのロビーだと、そこの宿泊客でなくても本来の目的に沿った建築の姿を体験することはできたけれど、迎賓館和風別館はそういうわけにはいかない。谷口が重視したに違いない建物へのアプローチの仕方も異なるし(上の写真は建物の裏手、庭側からのアプローチ)、存分なもてなしがされる賓客と一介のグループ見学者とでは空間の現れも変わってくるだろう。建築を観る専門家ならばそんな違いに左右されずに客観的に建築を判断できなければならないというのはまったくその通りだとしても、とりわけ谷口が、そうした現実のアクティヴィティと響きあう姿を見据えて建築を考えた建築家だったということもまた事実だと思う。
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