ある人物がその研究対象とする故人の建築写真集をつくるという名目で非営利のアーカイヴから大量の写真を無償で借り、写真集の出版後、それらの画像データを今度は事情を知らない海外の第三者に高額で貸し出して商売を始めようとしたという話を聞いた。ふっかけられた金額を不審に思った海外の第三者がアーカイヴに問い合わせたことで発覚したらしい。モラルもリスペクトもあったものではない。その写真は「ある撮影者の写真作品」としての意味だけでなく「ある建築家の建築作品の写真」としての意味も持っているので問題はより複雑だ。
同じ人物はまた、写真集の出版目的で借りたその写真フィルムを用いて新たに無断でプリントを作成し、大胆にも写真集の刊行に合わせて「スペシャルエディション」と称して一般販売したという(35㎜フィルムのコンタクトプリント1シートで、売り値は税別88,000円だったようだ)。こちらのほうがより明白に計画性があり、未遂でもないため事件性が高い。アーティストを肩書きにしているその人物は、自身が制作した作品については人並みかそれ以上にきっちりとコピーライトを管理しているようだから、権利関係の知識がないわけではないのだと思う。
これは単に詐欺的な手続きで盗品的なものが売られたというだけでなく、研究者然アーティスト然としたその人物(某大学の博士課程を修了しているという)が、故人である撮影者やその写真をいかにも尊重するかのように見せ、そのじつ自らの身勝手な利益のために故人の遺志を踏みにじっているという点で、より卑劣な行為に感じられる。日本の写真史でも重要な位置を占める故人はしかし、ある時期に自らの写真活動を全否定し、以降、それが自身の作品として扱われることを嫌ったのは周知のことだろう。件のアーカイヴもその故人の遺志を重んじ、公共的な利益との兼ね合いのなかでこれまで運営がされてきたのだし、写真集の制作者にもそのことは重ね重ね伝えられていたはずだ。にもかかわらず、それが作品どころか不正な手段で商品にまでされた。もし故人が生きて今回の件を知れば、激怒し深く傷ついたと思う。

たとえば法律上この件がどう位置づけられるのか、僕には定かではない。少なくとも法的には当事者同士、つまりその人物と写真の所有者・著作権者の問題になるのだろうから(「スペシャルエディション」の販売業者と購入者も関わってくるかもしれない)、その意味では僕は部外者にほかならない。けれどもこれが出版(publication)に関係している以上、単なる当事者間の権利問題を超えて、より公共的な(public)問題でもあるのだと思う。
僕がいま自分の立場で書きとどめておきたいのは、このモラルやリスペクトのなさは、出版された写真集自体にもすでに見受けられるということだ。僕が見るかぎり、上記の事件と写真集の内容とは決して別個のことではなく、表裏一体の関係にある。モラルやリスペクトがなくてもそれなりの価値が認められる本ができることはあるだろうが、本書の場合、この編者兼発行者の態度によって、写真やその撮影者がもつ意味は相当に歪められ、あるいは損なわれてしまっているように思われる。そしてこのことは上記のような法的な犯罪行為よりもむしろ影響は重大であると僕には感じられる(貸し出した写真を悪用されてしまったアーカイヴには気の毒だが、それ自体は世の中に無数にある犯罪のうち比較的ちんけな部類に入るだろうし、問題が発覚してしまえば解決はさほど困難ではないはずだ)。
この写真集が抱える問題について細かいことを挙げていくと本当に切りがなく、またそれらの一部は書評として別のところで書いてもいるので、ここでは特に本質的と思われる点をいくつか記しておくことにする。
モラルやリスペクトのなさはまず表紙のデザインに表れている。すなわち写真の撮影者である故人の名前と、編者である自らの名前を同じサイズの文字で等価に並べている点。これは出版物の内容やそこで編者が担っただろう仕事の程度からして明らかに妥当ではない(たとえば編者であるベレニス・アボットが決定的な役割を果たしたウジェーヌ・アジェの写真集でさえ両者の名前が等価に記されることなどないし、同様の形式の本と比べてもまったく例外的にちがいない。焼却を望んだカフカの遺志に背いてその遺稿を出版した友人マックス・ブロートは、その歴史的にも重要な仕事において自らの名前を大きく打ち出そうなどと考えただろうか)。また、有名な撮影者の名前と無名の編者の名前を並べて見せることは、販売促進、つまりより多くの人に手に取ってもらうための効果も期待できないどころか、極端に言って撮影者のクレジットが1/2に薄められて見えるわけだから、むしろせっかく出版する本の販売に悪い影響が予想される。にもかかわらずどうしてこうなっているのか。表紙は本の顔と言われるが、この写真集の表紙が語っているのは、何はともあれ自分をなるべく大きく見せたいという編者の欲望だと思う(もしもまともな出版社や編集者がついていたなら、おそらくこの表紙デザインは採用されなかっただろう。本書が抱える様々な問題は、編者が編集者や発行者も兼ねているという点に大きく依存していると思われる)。
このような印象は、同じ編者による巻頭言を読むことでより明確になる。詳しくは書かないが(書評のほうで多少指摘している)、文章を立派に見せようとする意識ばかりが前面に出て、本来あるべき説明の抜けや論理のいびつさが散見される。こうした欠陥は、単に研究が未熟だったり作文の技術が足りなかったりすることだけが原因ではないと思う。もしそれらの力が十分ではなかったとしても、書き手の根本に対象への深い興味と実感があれば、当人の能力の範囲内で、ある種の秩序と必然性を感じさせる文章は書かれえただろう。しかしこの巻頭言はそうして内的に生成されたものではなく、自身の見え方を気にして外的に繕われたものに思われる。だからかえってボロが出る。そもそも本書には編者の研究にもとづくような知見はほとんど見られないが、こうしたハッタリ的な態度自体がおよそ健全な研究というものからかけ離れている。
ひとつ重要と思える例を挙げれば、この写真集では、撮影者が建築写真を撮るとともにそれぞれの建築について書いた建築批評の存在がなぜか無視されている。たとえ本書が写真を扱う本だったとしても、同じ人物が同じ時期に同じ建築に対してなした(時に同じ媒体で同時に発表された)写真と批評の行為が無縁であるはずはない(特にこの撮影者/批評者の場合、極度に専門分化された現代社会において、一見ジャンルもテーマもばらばらに思える様々な活動や研究が、一個人によってなされたこと、そしてそれらがその底で繋がっているだろうことに、本質的な意味があると思う)。また、撮影者自身は写真よりも批評のほうこそ自分の仕事だと考えていたことは疑いえないのだから、一方の写真だけを持ち上げ、批評の存在に触れもしないというのは、作者にとってとりわけ侮辱的なことに思われる。写真集のタイトルを思い起こしても、そこで「建築のことば」であるはずの批評がなかったことにされているのは極めて不自然であり、不十分かつ不可解と言うほかない。面倒だったのか興味がなかったのか、それとも対象にとって重要であっても自分が苦手な領域は除外したかったのか、理由は分からない。
そして本書の作業の中心とも言うべき写真の編集の仕方にも疑問は感じられる。本書の写真の並びからは、いったい編者はこれらの写真のどこに魅せられ自ら出版企画を起ち上げるまでになったのか、その関心の有り様をうかがうことができない。撮影者による建築批評のテキストを無視していることからも察せられるように、おそらく編者は写真の被写体である個々の建築には記号として以上の興味を抱いていない。とするとそれぞれの建築の作品性を外したところで写真そのものを直観的に観ることになるのだろうが、それはそれでひとつの態度だとしても、そこに一貫した固有のまなざしが感じられない。もとより撮影者が個々の建築作品に向き合うことで生まれている写真なのだから、そこを抜きにしてなんらかの有用な価値基準で位置づけようとすることには無理があるのだろう。結果、点数を絞って厳密に写真を組むことができず、それなりに多くの視点をそれなりに多くのカットで示すという消極的な編集方法になったということではないか(それにより不出来なカットや内容が類似するようなカットも拾われることになる)。写真集を商品として考えた場合、たしかにそうして多くの写真を載せることはひとつの売りになる。
しかし一方で、そのように写真を定量的に扱い、足し算的に編集をすることは、ある種の建物を情報として伝える場合には有効だとしても、一般的な建築写真における情報性や記録性への過信・盲信を批判した撮影者の建築写真にはそぐわない。1点の写真は必ずしも自律的な存在ではなく、隣接する別の写真や言葉によって様々に意味を変えるものだ。実際本書ではその弛緩した編集により、撮影者が対峙した作品としての建築の存在はぼやかされ、内容の重複する写真同士が互いの作品性を相殺するようなことが起きている、と僕には思われる(10点の写真が1点の写真の10倍の体験をもたらすとは限らない。むしろ然るべき体験を10倍に希釈するかもしれない)。
以上のようなことが編集の基本的性質として考えられるなかで、この写真集ではいくつかの部分でいかにも意味ありげな写真の構成がなされている(たとえば同じ建物で、工事中の写真と竣工後の写真を見開きごとに反復して掲載するなど)。しかし、そのアピールを真に受ける必要はないだろう。読者が向き合うべき内実はそこにはないと思う。全体の核心を欠いたまま部分的・表面的な装飾で虚勢を張るさまは巻頭言の文章と共通し、たしかにどちらも同じ人物の手によるものだと納得させられる。
編者の認識は、たとえば本の宣伝文句にある「収録写真の半数以上が、本書において初めて発表されます」という言葉によく表れていると思う。「住宅作品をうつした写真の大半が、撮影後50年ものあいだ未発表であった」と言うけれど、多少でも写真というメディアに馴染みのある人なら誰でも常識的に分かるとおり、どんな写真家であれ、特に大判・中判ではなく35㎜のフィルムを用いている場合、撮られた写真の大半が発表されないのはごく当たり前のことだ(とはいえ厳密に調べたわけではない僕が知るかぎり、この写真集に掲載されている建築17作のうち少なくとも12作の写真は過去になんらかのかたちで発表されているし、発表されなかったものも、撮影者の自宅である1作を除いては、ただ単に発表されるには至らなかったというだけで、そこにことさら特別な理由があったとは思えない。この撮影者には、撮った写真はすべて作品化して自身の業績としなければならないという職業的な写真家の強迫観念はなかった)。
そもそもある人がシャッターを切った写真、プリントした写真をすべてその人の作品と認めることには困難を感じさせる。それらの写真はあくまで作品未満の「素材」、あるいは使われない可能性も含んだ「素材候補」のようなものではないか。だとするなら、それら未発表写真を撮影者の作品として他者が発表することには、どれだけあっても十分とは思えない作品への深い理解と大きな責任を必要とする。未発表写真の数を得意気に売りにするような物言いには、そのことに対する恐れが感じられない。しかも本書ではそれらの未発表写真をかつて作品化された写真と区別せず一緒くたにしているのだから、やはり写真の創作に対するモラルやリスペクトは欠落している(まず実際にどの写真がすでに発表されているのか、研究の初歩的な作業であり地道に調べれば分かることを、この編者がきちんと把握しているかどうか定かではない。本書にはそれらの写真が生きた存在証明とも言うべき過去の掲載媒体の記載がない。初出情報を示さないということは、当時においてそれらの写真がどのような媒体でどのように発表されたかという(領域越境的な故人の建築写真においては特に)重要な事実から読者を断絶させるというだけでなく、それらの写真が世に出ることに関わった存在、つまりその仕事がなければ今の自分の仕事もないかもしれない過去のメディアや編集者などを尊重する意志も持ち合わせていないということだ。
いったいこの編者は自らの仕事をことさら自分の手柄として見せるために、先達の営みを切り捨てるきらいがある。たとえば写真集の宣伝文などにおいて、今回の編集対象の写真を自分が「みつけた」と表現している点。コロンブスがアメリカ大陸を「発見」したとき、たしかにそれまで西洋世界でその大陸は「見つかっていなかった」だろう。けれども故人の建築写真はこの世界で「見つかっていなかった」のか? まさかそんなことはない。数十年ものあいだそれぞれの所有者によって適切に管理されてきたはずだし、そのことは建築その他の出版メディアや美術館などにも当たり前に知られており、機会があるごとに貸し出されては、この編者を含む一般の目にも触れていたのである)。

以上、写真集について長々と書いたことは冒頭の事件の印象を弱める盛大な蛇足に思われるかもしれない。僕自身の主観的な考えをさらしてしまってもいるだろう。しかしそれでも書かずにはいられないことだった。
この写真集には撮影者の仕事の側面と編者の仕事の側面の両方がある。ふつう一冊の本はその統合をめざすものだが、ここでは両者が明確に分かれている。撮影者の仕事の側面を考えたとき、かつての写真がいまあらためて出版されたことの意義は(故人が望まないことだったにせよ)否定できない。この写真集によって、収録された写真や建築に新たに興味を惹かれる人もいるだろうし、なんらかの思考や行動が触発されることもあるかもしれない。しかしその出版の意義を認めようとすればするほど、それを実現させたはずの編者の仕事が同時に、その意義に反するもの、それらの写真や故人の活動を貶めるものに思えてしまう。


【追記】上記の文章をnoteに再掲しました。(2021年5月28日)
note.com

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夕方、いつもよりすこし遅い時間に近所を散歩。絞り優先モードでどんな写り方になるか試しながら撮る。なかなか思うように撮れないけど、思うように撮れないことでむしろよく撮れたという場合もある。以下3点。

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有吉弘行と夏目三久の結婚の報。ふたりが出会ったテレビ番組「マツコ&有吉の怒り新党」(2011-2017)は放送開始からずっと見続けていたし(2017年3月29日)、有吉の言動には当時から共感してきたので、むしろ身近な人の結婚(夫か妻のどちらかしか知らないことが多い)よりも感慨深い。作家や芸術家など僕にとって面識がなくても深く共感する人は古今東西それなりにいるけれど(死者が多い)、それらの人は創作物を介したもっと高尚なレベルでの共感というか、有吉の場合は現代のテレビタレントとして、高校や大学の友達のような世俗的なレベルでの共感なので(しかし高校や大学の友達のように現実の多面的かつ双方向的な他者ではなく、より抽象化された存在ゆえの想像的で純粋な共感)、結婚のような世俗的なできごとも心に響いてくるのだと思う(必ずしも単純な祝意だけではない複雑な感情)。
最近の記憶に残るところでは、上記の番組の後継である「マツコ&有吉 かりそめ天国」で、カルロス・ゴーンに対する日本のテレビメディアのパパラッチ的な取材姿勢に苦言を呈したこと、そしてその苦言の呈し方に、敬意にも近い共感を抱いた。しかしもっと些細な共感は同じ番組を見ていてしょっちゅうあり(他の番組はあまり見ない)、それらは些細であるぶん、余計に縁の深いものにも思われる。

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世田谷美術館で「アイノとアルヴァ 二人のアアルト フィンランド―建築・デザインの神話」展を観た(〜6/20)。やたらと記号的な要素が連なるタイトルが象徴するかのように、いまいち焦点が定まらない印象。英題は「Aino and Alvar Aalto: Shared Visions」。基本的には「これまで注目される機会の少なかったアイノの仕事にも着目する」ということで、ある種の時代性を反映した切り口と言えるかもしれない。ただ、もしこの展示だけを観たら、建築家アールトの仕事の総体ないし核心はむしろぶれて見えてしまわないだろうか。ところどころにあるIKEAのモデルルームを思わせるような展示もそれ自体悪いわけではないけれど、2年半前の「アルヴァ・アアルト──もうひとつの自然」展(2018年9月16日)ではもうすこし内容にメリハリがあった気がする。家具にとくに興味がある人にはよいだろうと思う。曲げ木の技術が詳しく紹介され、実物も多く展示されていた。


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帰り道。

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昨日、天王洲アイルで撮った写真。用がなければ行かない場所だけど、昼御飯を食べ、なかなか心地よかった。用がなければ行かないくらいの場所があまり騒がしくならずによいのかもしれない。以下、写真4点。

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品川の建築倉庫の新施設WHATで「謳う建築」展を観た(〜5/30)。冒頭、立原道造の「小譚詩」(1936)と《ヒアシンスハウス》(1938)を象徴的に掲げつつ、その後の14の住宅建築について、それぞれを実際に体験した文芸家や詩人が詩で謳うという試み。
この「体験」ないし「体感」というのが、この企画のキーでありネックでもあったのかなと思った。たとえば建築に何より「構築」という観念を見いだすポール・ヴァレリーがもしここに参加していたとしても、自らの「体験」を頼りに詩作することはなかったのではなかろうか。よく知らないけども。たまたまいま図書館で借りていたので。

建築は、私の精神の最初の恋愛の数々のなかで大きな位置を占めていました。[…]無秩序から秩序への移行であり、恣意的なものを用いて必然的なものへと到達する構築[2字傍点]という観念が、私のなかで、人間がみずからに提起しうる最も美しく最も完全な行為の典型として定着していきました。完成された建物は、その存在が内包する意図と創意と知識と力の総体を一望のもとに示してくれます。

  • ポール・ヴァレリー「楽劇『アンフィオン』の由来」1932年、今井勉訳(『ヴァレリー集成Ⅴ 〈芸術〉の肖像』筑摩書房、2012年)

対象にされた住宅がどちらかと言うと観念ではない生活を重んじる吉村順三系の建築家によるものが多いことも関係しているかもしれない。よい住宅が多いと思ったけど、よい住宅の体験というのは、言葉にすれば「居心地がよい」「落ち着く」とか「光」「風」「緑」とかの常識的な範囲に収まりやすく、ヴァラエティは出にくい(それでかまわないのだと思う)。そのなかで意図して各住宅の固有性を出そうとすると、言葉は即物的で説明的な道具にもなりかねない。あるいは詩がその住宅の存在を的確に表現していたとしても、その住宅を体験していない来場者には、その建築とその詩との固有の響き合いが実感しづらい。それはもともと建築も詩も展覧会場で(他の存在と並列にされて)鑑賞されるものではないというジャンル/メディアとしての性質も関係しているかもしれない。建築や詩が置かれるのに向いているとは言えない展覧会の場では、むしろ各作品に補助的に添えられた数分の映像(よかった)が鑑賞体験において支配的になりかねない。
(たとえば誰もが思い浮かべられるような建築を題材にし、その建築の似姿(写真や模型)は示さないまま詩だけを集めるというのはどうか。そのほうが「謳う建築」は体験しやすいのではないか──目は時にものを見るのに邪魔になる。しかしそれだと展覧会でやる意味は薄く、本の企画に近づく。あるいは「建築と詩のコラボレーション」ではなく「共通の建築を題材にした写真と詩のコラボレーション」とし、建築の視覚情報を写真作品に限定させたほうが、展示物同士の表現や表象の次元が釣り合い、写真と詩がより確かな響き合いのなかで建築のイメージを浮かび上がらせるということはないだろうか。)
批判が強くなってしまった。全体を概観すると、以上のような形式的な側面がまず言語化しておくべきことに思えるけれど、建築と詩あるいは文学との関わりは個人的に興味を持ってきたところだし(僕も昔、フランク・ロイド・ライトの建築について長田弘さんに詩を書いてもらったりしたことがあった)、いいかげんに表面を撫でるだけでなく、よくここまで踏み込んで企画してくれたという思いが前提にある。建築と言葉のあり方について思考をめぐらせることができただけでなく、具体的にいろんな建築家の住宅があることを知れたり(それぞれの建築を選んだのがどういう人か知らないけど、現代のメジャーな建築ジャーナリズムや建築史の価値観とはすこし違う感じがして、それも魅力だった)、馴染みのない詩の世界に触れられたこともよかった。
下の写真は、堀部安嗣さんの住宅のクライアントのアルバム(複製)。ここに記されている言葉は堀部さんの建築の構築性・観念性を示しているかもしれない。
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WHATでは同時開催の「- Inside the Collector’s Vault, vol.1 - 解き放たれたコレクション」展(〜5/30)も鑑賞した。また、建築倉庫の模型保管庫も初めて見学した(500円)。香山壽夫先生の《聖イグナチオ教会》や山本理顕さんの《ROTUNDA》など見応えがあったけれど、全体としては建築の質も模型の質も玉石混淆と言うほかなく、せっかくのユニークな活動がその意義を見えにくくしてしまっている。

新刊『Kazuo Shinohara: Traversing the House and the City』(Seng Kuan編、Lars Müller)に、阿野太一さんによる評論「多木浩二の建築写真を通じて、写真と建築の関係について考える」が英訳掲載されました。多木浩二が撮影した篠原一男の建築の写真をめぐって、別冊『多木浩二と建築』で書いていただいた文章です。この文章は去年のトークライブ「多木浩二と建築写真──三人寄れば文殊の知恵」の議論でも参照させていただきました。

東日本大震災は日本の社会において非常に大きな出来事だった。けれどもその意味の大きさには当然ながら地域や属性や個々人による偏差があるだろう。たとえば東北の人と比べて沖縄の人にとって震災の意味は相対的に小さいはずだし、沖縄は沖縄で、他の地域の人には実感しづらい別の大きな社会的問題を抱えているに違いない。またたとえ東北の人でも、ニュースにもならないたったひとつの交通事故のほうが、その人の人生にとっては東日本大震災よりも大きな意味を持つということは十分起こりえる。考えてみれば当たり前の事実だろう。これは別に東日本大震災の出来事としての大きさを否定するものではない。
震災以降、それをテーマにする芸術作品が数多く作られている(と思う)。「広さ」と「深さ」という空間的・定量的な概念をあえて用いるなら、それらの作品は、震災というテーマによって、社会的な広がりはいくらか保証されていると言えるかもしれない。しかし、人間ひとりひとりに現象する経験の深さは(他のあらゆる芸術作品と同様に)保証されていない。そしてたとえば「広さ100」×「深さ1」の作品(=100)が「広さ1」×「深さ10」の作品(=10)より価値が大きいと言い切ることもできない。
震災関連のアートを扱ったテレビ番組を観ていてなんとなく思ったこと。

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めずらしく傾いたままの写真。水平垂直にすると全体が均質化し、画面の中央部分に視線が向く力が弱くなるような気がした。主観性の演出。ノートリミング。

インタヴューという形式は開かれているようで閉じやすい。ある人を訪ねて話を聞きに行くインタビュアーにとって、自らの行為は外部に開いた行為だと感じられるけど(特に相手が異分野で面識がない場合)、そのインタヴューの場でされる話は、お互いに目の前に話し相手がいるぶん(相手が見えない孤独な執筆よりも)、そこで局所的に閉じかねない。
とはいえこうした「開く」「閉じる」の関係はむずかしく、読者そっちのけでインタビュアーの個人的な問題意識に閉じ、その場の局所的な対話に閉じることで、むしろその断絶された深さによって別の回路からより力強く他者や公に開かれるということも起こりうる。

GROUP(井上岳+大村高広+齋藤直紀)による出版まもない『ノーツ 第一号 「庭」』(ノーツエディション、2021年)を読んだ。

雑誌とは書いていないけど、まあ年刊の雑誌の創刊号と思ってよいのではないかと思う。あるいは定期刊行物と言うべきか。僕だけが思うことかもしれないが、以下のような多くの点で『建築と日常』との共通性を感じさせる。

  • 建築系のインディペンデントな雑誌(刊行頻度は高くない)
  • 1冊ワンテーマの特集主義
  • 特集テーマは根本的で抽象度が高く(1号と予告された2号のテーマを見るかぎり、日常性に根ざしている)、建築分野外の人やトピックも積極的に包含する
  • 他者へのインタヴューが中心的な構成要素になっている
  • インタヴューの本文に多様な註が付き、拡散的で重層化した読書空間を示す

そのせいで僕自身の考えや価値観を投影しすぎている恐れもあるものの、今後の『ノーツ』の活動に期待して書くと、さまざまに詰め込まれた情報に対して、全体としてどうもすんなりと言葉が入ってこないという印象があった。理由はいろいろあるにせよ(もちろん僕自身の問題も含め)、大雑把に言ってしまうと、この媒体が志向する多様性や拡散性をつなぎとめるような核の存在が希薄なのではないかと思う(『建築と日常』の場合、その核はなかば意識的に僕個人の思想や嗜好が担っているわけだけど、『建築と日常』では逆にその核が強く働きすぎて、多様なものを一元的に位置づけてしまいかねないことを気にかけている)。
どちらかと言うと今回の号は、これが実際にどういう読書体験をもたらすかということよりも、あるいは自分たちの興味にどうしようもなく衝き動かされてというよりも、いかに新鮮で魅力的な目次を描いてみせるかという形式的・構成的な地点に軸足がとどまっているように感じられる(その意味で、全部で6つあるパートのうち、GROUPの3人の専門であり関心の中心にあるはずの建築を扱ったパートがないのは象徴的と言えるかもしれない)。庭というテーマ設定はよいとしても、その上でさらに自分たちにとって切実なヴィジョンが全体を貫いていれば、この冊子をかたちづくるさまざまな要素の関係、つまり聞き手と話し手の言葉の関係や、全6パートのパート同士の関係、本文と註の関係、テキストとレイアウトの関係なども、より有機的・必然的なあり方をなし、おのずと各所で予期せぬひびき合いを生むようになったのではないかと思う。*1
あるいはこうした見解はやはり『建築と日常』発行者固有のものであって、特に若い人にとっては「媒体の核」や「切実なヴィジョン」などと暑苦しいことを言わずに、このくらいバラバラな感じのほうがフラットで好ましいという感覚もあるのかもしれない。しかし僕としては、『ノーツ』はインディペンデントな自費出版で、誰に頼まれたのでもなく、どこに遠慮することもなく、さらには本職としてそれで生計を立てるわけでもなく作られているのだから、その運動に必然的なパッションを認めたいと思ってしまう。
実際、目次や構成は新鮮で魅力があり、それはそれだけの知識やセンスに支えられているということだろうし、近年のインディペンデント系の出版物に見られがちな自己顕示や自己宣伝が前面に出てくる印象はなく、既成の領域に囚われずに自分たちが今いる場所からものごとを捉えていこうとする姿勢には共感する。GROUPの3人の関係/体制がどうなっているのかは知らないけれど、1号では特に感じられない3人それぞれの個性が見えてくると、媒体として、より生き生きとしてくるのかもしれない(1号での3人によるテキストや発言はすべて基本的に無記名だが、べつにそこに個別のクレジットを表記したほうがよいという意味ではなく)。彼らは出版が専門ではないわけだから、今後活動が持続すれば、編集をめぐる思考や技術の習熟によって、より確かにメディアを手なずけていけるようにもなると思う。

*1:あとこれがどれだけ今回の『ノーツ』に当てはまるかどうかはともかく、特集テーマをめぐってその全体像や誌面に載らない背景・周囲のことまで同時に把握しながら要素を構成する作り手に対し、雑誌の読み手はそもそも各要素のあいだにどれほどの関係や秩序があるのか見通しがないままそれらを線的に読み進めることになるという経験の格差が両者にはある。だから特に多様な要素を知的に構成することで成り立つような媒体においては、結局読み手にその構成された集合としての意味を経験してもらえなかったという事態を避けるために、多少強めに(親切に)全体を統合しておいたり要素間の関係を顕在化させておいたりする補正的な操作が編集の技術として有効になるかもしれない。

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写真を撮りながら近所を散歩。今更だが撮影の幅を広げていきたいと思い、ふだんのフルオートから絞り優先モードにしてみた。きれいに撮れている場合もあれば、露出や被写界深度がうまくいっていない場合もある。それは運。
以下10点、撮影順。

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