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品川の建築倉庫の新施設WHATで「謳う建築」展を観た(〜5/30)。冒頭、立原道造の「小譚詩」(1936)と《ヒアシンスハウス》(1938)を象徴的に掲げつつ、その後の14の住宅建築について、それぞれを実際に体験した文芸家や詩人が詩で謳うという試み。
この「体験」ないし「体感」というのが、この企画のキーでありネックでもあったのかなと思った。たとえば建築に何より「構築」という観念を見いだすポール・ヴァレリーがもしここに参加していたとしても、自らの「体験」を頼りに詩作することはなかったのではなかろうか。よく知らないけども。たまたまいま図書館で借りていたので。

建築は、私の精神の最初の恋愛の数々のなかで大きな位置を占めていました。[…]無秩序から秩序への移行であり、恣意的なものを用いて必然的なものへと到達する構築[2字傍点]という観念が、私のなかで、人間がみずからに提起しうる最も美しく最も完全な行為の典型として定着していきました。完成された建物は、その存在が内包する意図と創意と知識と力の総体を一望のもとに示してくれます。

  • ポール・ヴァレリー「楽劇『アンフィオン』の由来」1932年、今井勉訳(『ヴァレリー集成Ⅴ 〈芸術〉の肖像』筑摩書房、2012年)

対象にされた住宅がどちらかと言うと観念ではない生活を重んじる吉村順三系の建築家によるものが多いことも関係しているかもしれない。よい住宅が多いと思ったけど、よい住宅の体験というのは、言葉にすれば「居心地がよい」「落ち着く」とか「光」「風」「緑」とかの常識的な範囲に収まりやすく、ヴァラエティは出にくい(それでかまわないのだと思う)。そのなかで意図して各住宅の固有性を出そうとすると、言葉は即物的で説明的な道具にもなりかねない。あるいは詩がその住宅の存在を的確に表現していたとしても、その住宅を体験していない来場者には、その建築とその詩との固有の響き合いが実感しづらい。それはもともと建築も詩も展覧会場で(他の存在と並列にされて)鑑賞されるものではないというジャンル/メディアとしての性質も関係しているかもしれない。建築や詩が置かれるのに向いているとは言えない展覧会の場では、むしろ各作品に補助的に添えられた数分の映像(よかった)が鑑賞体験において支配的になりかねない。
(たとえば誰もが思い浮かべられるような建築を題材にし、その建築の似姿(写真や模型)は示さないまま詩だけを集めるというのはどうか。そのほうが「謳う建築」は体験しやすいのではないか──目は時にものを見るのに邪魔になる。しかしそれだと展覧会でやる意味は薄く、本の企画に近づく。あるいは「建築と詩のコラボレーション」ではなく「共通の建築を題材にした写真と詩のコラボレーション」とし、建築の視覚情報を写真作品に限定させたほうが、展示物同士の表現や表象の次元が釣り合い、写真と詩がより確かな響き合いのなかで建築のイメージを浮かび上がらせるということはないだろうか。)
批判が強くなってしまった。全体を概観すると、以上のような形式的な側面がまず言語化しておくべきことに思えるけれど、建築と詩あるいは文学との関わりは個人的に興味を持ってきたところだし(僕も昔、フランク・ロイド・ライトの建築について長田弘さんに詩を書いてもらったりしたことがあった)、いいかげんに表面を撫でるだけでなく、よくここまで踏み込んで企画してくれたという思いが前提にある。建築と言葉のあり方について思考をめぐらせることができただけでなく、具体的にいろんな建築家の住宅があることを知れたり(それぞれの建築を選んだのがどういう人か知らないけど、現代のメジャーな建築ジャーナリズムや建築史の価値観とはすこし違う感じがして、それも魅力だった)、馴染みのない詩の世界に触れられたこともよかった。
下の写真は、堀部安嗣さんの住宅のクライアントのアルバム(複製)。ここに記されている言葉は堀部さんの建築の構築性・観念性を示しているかもしれない。
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WHATでは同時開催の「- Inside the Collector’s Vault, vol.1 - 解き放たれたコレクション」展(〜5/30)も鑑賞した。また、建築倉庫の模型保管庫も初めて見学した(500円)。香山壽夫先生の《聖イグナチオ教会》や山本理顕さんの《ROTUNDA》など見応えがあったけれど、全体としては建築の質も模型の質も玉石混淆と言うほかなく、せっかくのユニークな活動がその意義を見えにくくしてしまっている。