GROUP(井上岳+大村高広+齋藤直紀)による出版まもない『ノーツ 第一号 「庭」』(ノーツエディション、2021年)を読んだ。

雑誌とは書いていないけど、まあ年刊の雑誌の創刊号と思ってよいのではないかと思う。あるいは定期刊行物と言うべきか。僕だけが思うことかもしれないが、以下のような多くの点で『建築と日常』との共通性を感じさせる。

  • 建築系のインディペンデントな雑誌(刊行頻度は高くない)
  • 1冊ワンテーマの特集主義
  • 特集テーマは根本的で抽象度が高く(1号と予告された2号のテーマを見るかぎり、日常性に根ざしている)、建築分野外の人やトピックも積極的に包含する
  • 他者へのインタヴューが中心的な構成要素になっている
  • インタヴューの本文に多様な註が付き、拡散的で重層化した読書空間を示す

そのせいで僕自身の考えや価値観を投影しすぎている恐れもあるものの、今後の『ノーツ』の活動に期待して書くと、さまざまに詰め込まれた情報に対して、全体としてどうもすんなりと言葉が入ってこないという印象があった。理由はいろいろあるにせよ(もちろん僕自身の問題も含め)、大雑把に言ってしまうと、この媒体が志向する多様性や拡散性をつなぎとめるような核の存在が希薄なのではないかと思う(『建築と日常』の場合、その核はなかば意識的に僕個人の思想や嗜好が担っているわけだけど、『建築と日常』では逆にその核が強く働きすぎて、多様なものを一元的に位置づけてしまいかねないことを気にかけている)。
どちらかと言うと今回の号は、これが実際にどういう読書体験をもたらすかということよりも、あるいは自分たちの興味にどうしようもなく衝き動かされてというよりも、いかに新鮮で魅力的な目次を描いてみせるかという形式的・構成的な地点に軸足がとどまっているように感じられる(その意味で、全部で6つあるパートのうち、GROUPの3人の専門であり関心の中心にあるはずの建築を扱ったパートがないのは象徴的と言えるかもしれない)。庭というテーマ設定はよいとしても、その上でさらに自分たちにとって切実なヴィジョンが全体を貫いていれば、この冊子をかたちづくるさまざまな要素の関係、つまり聞き手と話し手の言葉の関係や、全6パートのパート同士の関係、本文と註の関係、テキストとレイアウトの関係なども、より有機的・必然的なあり方をなし、おのずと各所で予期せぬひびき合いを生むようになったのではないかと思う。*1
あるいはこうした見解はやはり『建築と日常』発行者固有のものであって、特に若い人にとっては「媒体の核」や「切実なヴィジョン」などと暑苦しいことを言わずに、このくらいバラバラな感じのほうがフラットで好ましいという感覚もあるのかもしれない。しかし僕としては、『ノーツ』はインディペンデントな自費出版で、誰に頼まれたのでもなく、どこに遠慮することもなく、さらには本職としてそれで生計を立てるわけでもなく作られているのだから、その運動に必然的なパッションを認めたいと思ってしまう。
実際、目次や構成は新鮮で魅力があり、それはそれだけの知識やセンスに支えられているということだろうし、近年のインディペンデント系の出版物に見られがちな自己顕示や自己宣伝が前面に出てくる印象はなく、既成の領域に囚われずに自分たちが今いる場所からものごとを捉えていこうとする姿勢には共感する。GROUPの3人の関係/体制がどうなっているのかは知らないけれど、1号では特に感じられない3人それぞれの個性が見えてくると、媒体として、より生き生きとしてくるのかもしれない(1号での3人によるテキストや発言はすべて基本的に無記名だが、べつにそこに個別のクレジットを表記したほうがよいという意味ではなく)。彼らは出版が専門ではないわけだから、今後活動が持続すれば、編集をめぐる思考や技術の習熟によって、より確かにメディアを手なずけていけるようにもなると思う。

*1:あとこれがどれだけ今回の『ノーツ』に当てはまるかどうかはともかく、特集テーマをめぐってその全体像や誌面に載らない背景・周囲のことまで同時に把握しながら要素を構成する作り手に対し、雑誌の読み手はそもそも各要素のあいだにどれほどの関係や秩序があるのか見通しがないままそれらを線的に読み進めることになるという経験の格差が両者にはある。だから特に多様な要素を知的に構成することで成り立つような媒体においては、結局読み手にその構成された集合としての意味を経験してもらえなかったという事態を避けるために、多少強めに(親切に)全体を統合しておいたり要素間の関係を顕在化させておいたりする補正的な操作が編集の技術として有効になるかもしれない。