物を与える場合には、よろこんで、そしてほほえみながら与えよ。(ジョゼフ・ジューベール)

このまえ(6月6日)引用した大塚幸男『フランスのモラリストたち』(白水社、1967年)に載っていた箴言のひとつ。ジューベール(1754-1824)という人は、日本では本書の出版当時も今もあまり知られていないようだけど、著者は思い入れがあるらしく、モンテーニュ、ラ・ロシュフーコ、パスカル、ヴォヴナルグと並び、本書の1章がその評伝に充てられている(厳密にいうとモンテーニュは倍の2章分)。たしかに上の箴言などは、そこからおよそ200年後の今でも深く頷ける。抽象化され凝縮された言葉に、時代や文化の隔たりを超えて共感する。
やはりモラリストの思想や表現には興味を惹かれるのだけど、モラリストを概説した日本語の書籍は、今回のこれと、以前読んだ(2012年12月31日)竹田篤司『モラリスト』(中公新書、1978年)くらいしか見当たらない。モンテーニュやパスカルといった個々の作家がこの先も読み続けられていくのは間違いないとしても、「モラリスト」という抽象的な枠組みはもう流行らないのだろうか。上記の2冊はどちらも、モラリストは「永遠の人間(永遠に変わらない人間)のあり方」(大塚)を考え、「人間は本質的にみなおなじであるという、人間の普遍性に対する確信」(竹田)を持っていたということを指摘している。たしかに大きく言ってモラリストの文章を読む人は、そこに自分と異質の人間ではなく、自分と同質(そして格上)の人間を求めている気がする。一方、人間の多様性を重く見ることが政治的な正しさにもなっている現代では、芸術作品は自分と異質のものに出会う機会だと考えるほうが、少なくとも玄人や専門家のあいだではスタンダードになっているように見える。そこではあらかじめ共感を求めて作品に接するような態度に疑いの目が向けられ、自分と異質のものを受け入れようとしないのは傲慢だと批判されたりもする。事実、大衆的・商業主義的なレベルでは、人々の既視感にもとづき、安易な共感を狙ってつくられる作品が溢れているわけだから、こうした批判が出てくるのは当然のようにも思われる。
もちろん人間は異質か同質かといった話はあくまで観念上の対比であり、実際には完全なる異質も完全なる同質もありえない。人間の同質性を認識するにはそれと別の部分で人間の異質性を認識していなければならないし、その逆もまた然りである。だからある作品のなかで異質な他者に出会い、感動することがあったとしても、その感動は同時に人間の同質性によってもたらされているのであり、そのとき人間の異質性を重視するか同質性を重視するかは、単に主観やイデオロギーの問題なのかもしれない。
ところで『フランスのモラリストたち』では、そのはしがきでいくぶん唐突に、著者(1909-1992)と島崎藤村(1872-1943)とのエピソードが綴られている。

 昭和八年四月、ジューベールの随想を十ばかり訳してさる同人雑誌に載せたのを、若気の至りで島崎藤村先生に送ったところ、折り返し返事が来た。はがきの表には、《東京麻布飯倉にて 島崎春樹》とあり、文面は次のごとくであった。《御手紙も拝見し譯文も受け取りました ある人々にあってはの一節*1はエレン・ケエがロダンを評した言葉など思ひ出しました、猶深く分け入って下さい、好い薔薇は思ひがけないところに隠れてゐるものですから 四月十四日》
 《逝くものは……昼夜をすてず》、あれから三十余年の歳月が流れた。この間にわたくしはどれほど深く分け入ったであろうか? 顧みてただ恥ずかしいばかりである。

調べてみると著者には『花咲く桃李の蔭に──モラリスト・島崎藤村』(潮出版社、1972年)という著作もあるらしい。フランス文学者である著者がフランス文学つながりで藤村をテーマにするのは理解できるものの、僕には藤村とモラリストがつながるイメージはなく、意外な気がした。なんとなしに興味を惹かれ、「日本の古本屋」でその本を検索してみたところ、思ってもみず、『フランスのモラリストたち』のはしがきに記されていた藤村からの葉書の現物が、値段を付けられ販売されているのを見つけた。

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*1:「ある人々にあっては、文体が思想から生まれ、他の人々にあっては、思想が文体から生まれる。」同書p.274