実家の本棚でたまたま目にとまった、竹田篤司『モラリスト』(中公新書、1978)を読んでみた。モラリストという存在は前からなんとなく気にかかっていたのだけど(2011年6月13日)、すこし検索した限りでは概括したような本が見当たらなかったので、そのままにして機が熟すのを待っていたのだった。この本は入門書ではあるものの、かなり特殊な書き方がされていて(A・B・Cという三者の対話形式が大きな部分を占めていたり、その対話を進めるために頻繁に引用されるモラリストの研究書が著者自身による架空の本であったり)、そういう形式の工夫自体がモラリストという内容を解説するのにふさわしいようなのだけど、そうして書かれたこの本が専門的にどう位置づけられるのかは判断できない。ただいずれにしても興味深く読んだ。モラリストにおいては、日常性、相対感覚、判断力、個別と普遍、部分と全体、形式と内容、「幾何学の精神」と「繊細の精神」などがキーワードになるらしい(そういえば多木浩二篠原一男論に「幾何学的想像力と繊細な精神」というものがあった)。以下メモ。
定義が曖昧なモラリストという概念の条件。

そこで私は本書の冒頭で、モラリストの定義ではなく、いわばその大まかな条件を、試みに三つ呈示してみたのであった。──まず(1)人間ないしその生き方の探究者。この大前提は、一応手つかずのまま残しておく。ただしそれを、以下のふたつの条件によって限定する。すなわち、(2)人間の認識とその表現の関係はきわめて密接であるとの観点から、それぞれの認識を盛るにふさわしい独自の表現のスタイルが、新しく創造される、あるいはすくなくとも既成のスタイルに、まったく新しい生命が吹きこまれる。さらにまた、(3)その人間探究の根底には、人間は本質的にみなおなじであるという、人間の普遍性に対する確信が潜んでいる。(pp.217-218

上記の(2)で指摘されている表現のスタイルのひとつ、モンテーニュにおける「エセー」。

刻々と変化し、拡大していく転換期の世界のなかで、自分自身の判断力という、一見最も頼りないものだけを頼りに現実を試(エセイエ)していこうとしたところから、『エセー』のあの厖大な世界が生まれてきた。生きることと認識することと表現することの三つが一体になった形で、『エセー』が書かれた。そしてその過程においてモンテーニュは、自分自身の認識が人間全体の認識に通じ得ることを発見した。(p.218

またもうひとつ、ラ・ロシュフコーにおける「マクシム」。

maximeは箴言。砕いていえば格言である。最小限の器のなかに最大限の内容を盛りこまなければならないため、一字一句におよぶ彫琢を必要とする。個々の〈maxime〉は、それ自体一個の独立した小宇宙であり、したがってそれらを集成した〈Maximes〉(マクシム集)は、それぞれの小宇宙がたがいに呼びかけ、かつ対応しあいながら、つくりあげられた大宇宙である。前者は後者の部分であり、後者は前者を規制する。しかしそれでいて、前者は個々にそれぞれキラキラと、独自の光茫を放っている。〈maxime(s)〉のもつこのような多角的構造は、人間の精神の多様性を多角的に洞察しながら、かつそこに、なんらかの一元性を見いだそうと志向したラ・ロシュフコーの認識との、なんとふさわしい対応だろう。(p.30)

モラリストが「日常性の認識者」と書かれるときの日常と非日常。

《…もちろん日常的生活が、それ自体、その対極である非日常性と等価であることはできない。すでに見たように、「なにも…ない」よりも、「なにか…ある」ほうが勝れていることは、まちがいないであろう。しかし一見、無でしかあり得ない平凡な日常的生活のなかに、究めつくすことのできない、広く深い世界を見いだしたひとによっては、その価値は顛倒する。日常性のほうが、非日常性よりも、より非日常的であるというような、極度の顛倒が成立するのだ。そのようなひとにとっては、口中に拡がった一服の茶の香りのほうが、たとえば非日常的世界における天才ナポレオンの征服した版図よりも、もっと広い世界を含んでいるかもしれない。
 そのような顛倒は、なぜ可能であろうか。ひとつには日常的生活は、各人の生理ないし生命現象に深く根ざしているため、そこに多かれ少なかれ、生命感の直接的な表出を見ることができるからである。ただしそのような生命感は、通常の場合、日常生活のルーティンのため、磨滅して、その輝きを失っている。それを見いだし、ふたたびとりもどすためには、なんらかの特殊な目、ないし才能が必要であろう。
 いまひとつは、日常的生活は、まさしくその日常性のゆえに、一見すべてのひとに共通しているからである。飲み食い、眠り、交わるというその内容は、時間と場所を問わず、普遍的であると言っていい。しかし普遍性のないところに、果して個別性があり得るであろうか。自分とおなじ相手があって、初めてまた相手との違いも存在することが可能であろう。ひとつしかないものは、比較することもできない。日常性の世界は、すべてのひとが共通にもっている世界であると同時に、ひとりひとりの「私」が、ひそかにもっている「私」だけの世界である。この矛盾した二重の構造を発見したひとの心には、当然あの価値の顛倒が起るであろう》(pp.18-19)

(先月のイベントの言葉を用いれば)モラリストにおける〈つくること〉と〈生きること〉。相対感覚。

ですからモラリストは、単に認識者として冷然と、世界や人間を見おろしているわけにはいかない。同時に生活者として、絶えず実践の場に立たされているわけです。むしろ認識者と生活者とが、つねに一体となっているところにこそ、モラリストの本領がある(p.21)

このような危機に対処するのに、いまひとつの新しい「絶対」、新しい「普遍」、新しい「秩序」をもちこむことは、混乱をますます激化させるだけにすぎない。そのような一元的思考によって現実を規制するのではなく、現実をありのままに見つめ、かつ混沌のなかにあって、自他ともに生きる新しい途を模索することこそ必要である(pp.42-43)

《…そのような自負の裏には、当然、地位とか身分とか富とかいう、借物の権威をかなぐり捨て、かつ上からの超越的なはたらきをもできるかぎり排除しながら、本質的に自分自身に属しているものだけを頼りにして、生き抜いていこうという不退転の決意が潜んでいる。しかし時代はモンテーニュに、権威への反抗を許さない。また他方彼のなかの、相対と平衡への志向者が、彼を徹底した反抗者として、火刑台の上へ押しやることを好まない。そこから、権威は権威として承認するが、自分自身はそれによって少しも動かされないという、複雑微妙な一点に佇立せざるを得なくなる。矛盾した、このような二重性こそ、以後のモラリストたちを規定する大きな特色である》(pp.61-62)

空間と思考の関係。個人と世界の関係。

《…モンテーニュの微妙な相対感覚のイメージとして、卓と椅子と本しかない、このわびしげな円い部屋と、そこにぽつねんとひとりで坐っているひげ面の中年男とが織りなす風景に如くものはないであろう。朝、三十数段の石段を、せかせかと、いくぶん汗ばみながら登ってくる。窓を開け、爽やかな田園の大気を、胸いっぱいに吸いこむ。と、なだらかに続く葡萄畑、点在する農家や木立ち、邸内の建物のひとつひとつが、瞬時のうちに視界のなかに飛びこんでくる。乾いた空気が膚をくすぐり、木立ちを渡ってくる風が耳もとをかすめていく。総毛立つような感覚に浸されながら、彼は本棚から分厚い革綴じの本をとりだし、心の赴くままにページをめくる。やがて思念が彼を捉えはじめると、立ちあがって、コツコツと軽く足音を鳴らしながら、床の敷石の上を歩きまわる…。このとき、ミシェル・ド・モンテーニュ、貴族にして領主、夫であり父であるモンテーニュは姿を消し、純粋にひとりの人間として、まじり気のない自由な自己の世界のなかに呼吸している。が、同時にこのとき、遠くの葡萄畑も、茂った木立ちも、空気も風も、革綴じの本も…それからその煩雑さに堪えかねて、先ほど逃げだしてきたばかりの年貢のゴタゴタも、女房のヒステリーも、すべてこの三階の円い部屋のなかで彼とともにある。というよりもむしろ、それらとともに彼自身がある。矛盾した、そのようなふたつの世界が、彼のなかで微妙なバランスを保って息づいている。
 自分というものをしっかりと確保しておきながら、それでいて外界を拒まず、外界とともにあるという地点に精神をつねに保っておくために、この一見みすぼらしい円い塔──敷地の入口というこの位置、三階という高さ、そして三方開けはなたれたこの円部屋は、なんとふさわしい場であったろう》(pp.51-52)

デカルトモラリストに含めるかどうかは見解が分かれるようだけど、この本ではモラリストに含められている。前にもほんのすこし触れたことがあったけど(2010年6月4日2011年12月8日)、やはりデカルトを近代合理主義の権化という一言で批判して片付けることはできなさそうな気がする。

たとえいかに困難な状況の下にあっても、自己のボン・サンスだけを信頼し、かつ、ボン・サンスによってうち樹てられた「方法」の命ずるままに、計画し、熟慮し、決断し、そしてひとたび決断するや、ためらうことなく、一歩一歩確実に前進する人間──まさしくこれこそ、近代を創り、近代をになった、新しい人間のイメージにほかならなかったのである(p.90)

デカルトパスカル

《…暗闇の森のなかを、一歩一歩足もとを確かめながら歩いていく『方法序説』のあの「私」の姿は、秩序にしたがって、単純なものから複雑なものへと段階的に進んでいく数学的思考にふさわしいイメージである。このような思考にとって、全体はつねに部分の集合にほかならず、部分の積みかさねによってでなければ、全体に達することはできない。そしてその場合、前提として必要とされる世界は、一滴の水の集合がコップ一杯の水であるような、等質化された世界である[…]それに対しパスカル的思考の場合、部分の集合はかならずしも全体とはなり得ず、全体の理解のためには、さらに別個の直観的方法が必要である。「遠くから見れば…」と、パスカルは言う、「…田舎はどこまでも田舎である。しかし近くに寄って眺めれば、それは家、木、瓦、葉、草、蟻、蟻の脚、等々、限りがない」。「家」や「蟻の脚」は、「田舎」の部分である。しかし前者自体に、後者の要素はすこしも含まれていない。「蟻の脚」の寄せあつめが「田舎」となるわけでもない。全体は部分からなるが、各部分が寄りあつまって全体を構成するとき、その部分に質的な変化が起る。全体は部分に細分することによってではなく、一気に、包括的にとらえられなければならない。一歩一歩少しずつではなく、「一撃にして」、「一目で」見渡すことができるのでなければならない》(pp.102-103)

パスカルは]むしろ「幾何学の精神」と「繊細の精神」──つまり認識における普遍性の原理と個別性の原理とを、交互に押しだし、かつ組合わせることによって、人間理解の構造を立体化した点に、モラリストとしての最大の功績が認められよう。(p.219)

抽象の機能。作者と読者の共同。

いろいろモラリストやその作品について伺ってきましたが、一般的にいってモラリストは、現実を抽象化し、普遍化する傾向が強いのでしょう。[…]ですからその場合読者のほうが、むしろ積極的に参加する。つまりそれぞれ自分の知識や経験をはたらかせて、作者と共同の世界をつくっていく。そしてそれによって抽象や普遍を、新しい現実へ解きもどしてやる。どうも、そういったふうな操作が、読者の側に必要になってくるのではないでしょうか。(pp.226-227)

モラリストとは通常、「人間とはなにか」なる問の探究者であるといわれる。「人間とはなにか」は、すなわち「私とはなにか」であり、かつ同時に、「きみとはなにか」にほかならない。作者の探究は、すなわち読者である我々ひとりひとりの探究である。作者は読者を必要とし、読者は作者を媒介とする。
 このような構造が成立するためには、作者の側にも読者の側にも、「人間」とは本質的に変らない、普遍的な存在であるという確信が必要である。(pp.230-231)

現代的意義。

人間がひとりひとり違っているためには、逆に万人に共通するなにかが存在していなければならないことは、以前述べた。あるいはまた、歴史は一回限りのものであるにもかかわらず、同時に、繰り返しながら進行する。人間や歴史の世界がもっているそのような矛盾した構造のなかで、モラリストの果すべき役割はまだ確実に存在しているであろう。モンテーニュの裡なるあのバランスの感覚、デカルトが抱いたボン・サンスへのあの信頼、そしてすべてを一撃にして把握するパスカルのあの「繊細の精神」は、人間に関する部分的知識のみが異常に増大しつつある現代の知的状況のなかにあっては、なお貴重なものであり続けるであろう。モラリスト精神分析構造主義も知らない。すくなくともそれらに依存しない。したがってモラリストの目は、無学の目であるかもしれない。しかしすくなくとも怠惰な目であることだけは、拒否し続けるであろう。既成の知識や体系のうえにあぐらをかき、公式的な思考操作に安住していることほど、モラリストの精神に反するものはないからである。(pp.221-222)