f:id:richeamateur:20210727225606j:plain
3年ぶりくらいでCDを買った。タワーレコード渋谷店は5年振り(2016年7月5日)。せっかくだし、すこしお金を払ってでもタワレコのあの黄色い袋に入れてもらうかと思っていたら(ノスタルジー)、なにも聞かずに入れてくれた。無料配布が可能なバイオマス素材25%以上で作っているらしい。
今月発売の『別冊ele-king 永遠のフィッシュマンズ』は、当事者や直接の関係者の言葉以外では、映画監督の朝倉加葉子という人の文章に迫力があった。「今聴くにあたって「90年代の閉塞感が」とか「同時期に音響派があったり」とか、そういう背景の情報も一切必要ないように思った」というくだりは、そこまで特集号を読み進めていた僕にはまったくそのとおりだと思われた。当時のフィッシュマンズに関する具体的なエピソードなどは知りたいけど、社会的・時代的な背景は必要ない。評論を読むなら音楽そのものと向き合った評論を読みたい(といって、技術的で専門性が高い文章はそれはそれで読み飛ばしてしまったりするのだけど)。
『別冊ele-king 永遠のフィッシュマンズ』には、1年前(2020年6月17日)にブログで引用した佐藤伸治のインタヴュー記事も収録されていた。フィッシュマンズ/佐藤伸治についてはいつか自分なりの文を書くことができればという思いがもうだいぶ前からあるけれど、たとえば建築や映画などと比べても格段に、自分は音楽を語る言葉をもっていない*1。だからもし僕が何か書くとしたら、やはり歌詞を軸にせざるをえないだろう。それは音楽を語るのに不十分だと思う。ただ、歌詞といっても僕はその言葉を文章として読んだわけではなく、20年近くの時間のなかで音楽として聴いてきたのだから、その自分の体験から離れずに忠実でいられれば、たとえ直接的には歌詞をめぐって書いたとしても、そこには自ずと音楽が含まれているのではないかと思ったりもする。
それはフィッシュマンズの、佐藤伸治の音楽がそういうものだということでもあるかもしれない。「とにかくメロディと言葉の繋がりに必然性を感じる。言葉がいいんだけど、なんかメロディはちょっと違うんだねみたいな感じがまったくない。」(茂木欣一インタビュー、『別冊ele-king 永遠のフィッシュマンズ』)。そういえば10年前にこのブログでもそんなことを書いていた(2011年4月27日)。フィッシュマンズの音楽の有機的統一。

*1:それは残念なことだ。でも音楽を語る言葉をもたないのは、もしかしたらよい面もあるかもしれない。建築や映画では、その作品を体験している最中から、その作品を語る言葉が浮かんでくることがある。しかしその言葉が作品から生まれてきたものならともかく、もともと自分の中にあった枠組みに作品を当てはめるようなものだと、作品を不当に限定してしまいかねない(たとえばホン・サンスの映画を観るとき、その危険性を感じる)。音楽の場合、よくも悪くもそういうことがない。